見出し画像

いかにして死ぬか、をふと考えることが増えてきた

80代の両親が心身共にここまで急激に老いるとは、本人たちも思っていなかったし、私たち家族もとにかく問題が起きるごとに後手後手で解決していくのでせいいっぱい。最終的に、いかにして看取るのかに結論を出さねばならない時が遅からず来るのは明らかだ。どのように介護して、看取り、葬るのか。分からないこと、知らないことが次々と出てくる。

さらに自分自身も、50代後半になって、これからどこで生きて、どこで死ぬか、ということを現実に計画していかねばならない時期が近づいてきているのを感じる。以前は、「100歳までおもしろおかしく生きよう」などと、なんの根拠もなく、なんの努力もせず、気楽に考えていた。でも、今は、100歳まで生きたいか、と問われれば、そこまで生きたくないと思ってしまう自分がいる。

最近、日本における死にまつわる本をあれこれ読んだ。
いろいろ考えていると、このテーマの本が目につくようだ。
左2冊は図書館の日本語コーナーで見つけた。右の本は前回の帰省で購入

両親の通院に付き添って、日本の医療の充実ぶりに感心していたが、『「人生百年」という不幸』は、日本の医療制度がこれまでのやり方では近い将来破綻することを、医者自身が説明していた。できるだけ長生きさせること、そのために医療をとことん費やす時代はもう終わっているのだ。「老乱」はフィクションだが、この作者も医者で、認知症になった本人の気持ち、混乱ぶり、苦しみ、悲しみがリアルに描写されていて、こういう思いを抱えていろいろなトラブルが起きてしまうのか、とものすごく納得した。最後の「なぜ日本人は戒名をつけるのか」では、戒名とは仏教には本来存在せず、仏教界が収入源として作った日本独自の仕組みであることを知った。そもそも高い値段の戒名をありがたがるなんておかしな話に私には思えて、私は戒名も、そして墓も葬式も不要だ。でも、両親や一緒に見送るであろう妹にまでこの考えを押し付けることはできないので、いざという時には、一番いいとその時点で思われるやり方を採用するしかないだろう。絶対的な正解なんて、存在しないはず。

私と夫は、こちらで年金をもらえる年齢である65歳までは、ニュージーランドでこのまま生活を続ける予定だが、そのあとどうするかは未定。以前は日本に戻るつもりだったが、今の世界情勢を鑑みると、まったく白紙。こちらでは、引退したら、家を売却して、そのお金でリタイヤメントビレッジ(ワンルームから我が家よりよっぽど広い豪邸まで、色々なタイプがある。通常のプロパティと異なり、所有権ではなく、住む権利を購入する)に入って悠々自適、という段取りが理想とされているように思うが、そんな施設に入って、ほかのお年寄りとの交流を楽しんでいる自分がまったく想像できない。

ニュージーランドの今の生活はとても気に入っているが、医療システムも介護体制も日本に比べるとまったく不十分。なにしろ人口がわずか500万人の小さな国である。ただでさえ医療レベルが低いうえ、検査のために数カ月待つなんていうこともざら。この週末の新聞の特集で、メラノーマ(悪性の皮膚がん。紫外線が強烈なニュージーランドでは白色人種に非常に多く、年間6000人が発症する。資料:https://melanoma.org.nz/all-about-melanoma/facts-and-risk-factors/)と認知症を併発して、痛みに苦しみ続けて攻撃的になってしまい、医療施設をたらい回しにされ、最後にようやくモルヒネで眠れるようになり、死を迎えることができた男性とその妻のストーリーが紹介されていた。

その記事で、「Old people are not afraid of dying but they are afraid of how they are going to die.(年を取った人々は死ぬことを恐れているのではなく、自分がいかにして死ぬのかを恐れている)」という妻の言葉が紹介されていた。私は、この言葉はすべての人に当てはまると思う。だれでも、自分が、そして自分の愛する人がいつか死ぬことを知っている。でも、どのように死ぬのか、苦しむのか、穏やかに人生を全うできるのか、それは前もって分からない。

分かっているのは、あと10年なんてあっという間だろう、ということだけ。まあ、最終的にはなるようになると開き直るしかないわけだが、とにかく、悩みすぎず、でも、情報をいろいろ集めて、人生の終わり方を夫と一緒にゆっくり考えていこうと思う。

オークランドはすっかり冬。今週は冬晴れが続くようです


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?