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#4 エジプト珍道中 ハイジ

アッサラーム・アライクム。

アラビア語で「こんにちは」を意味する言葉で、よく交わされる日常のあいさつだ。旅のさなか、何度も口にした。タクシーに乗ったとき、すれ違う人と目があったとき、レストランで注文するとき、誰かに近づいた瞬間、すかさず自分から先に言った。というのは、なんとなく、怖さをまぎらわすために。

日本にいるときに私も経験があるが、日常の風景のなかに異国人を見かけると、あまりじろじろ見るのはよくないと思いながらもつい、ちらりと視線を送ってしまう。ここエジプトの観光客の多いエリアでも、一本裏通りに入ってしまえばそこは、エジプトで暮らす人の日常であり、私はそこに突然混じった異物として、じろじろ見られることになる。だから、できるだけ早く一声かけて、安心したかったのだ。


その日、私が死者の町に入ったのは、日暮れ前だった。

幹線道路の下をくぐると、観光客はおろか地元の人すら姿を消して、ほとんど誰もいなくなった。おどろおどろしい名前の土地にこれから足を踏み入れようというのに、路地の角を曲がるごとにどんどん空の蒼さが深くなっていき、自然と足早になった。

石壁が続いている。向こうにはどうやら墓地があるようだ。

イスラムの人にとって、墓は、最後の審判を待つための場所らしい。人は死ぬといったん魂と肉体にわかれるが、時が来れば、魂が戻って肉体は復活し、天国に行くか地獄に行くかを宣告される審判を受ける。それまで、死者の肉体は土葬されて守られるのだが、この町の墓には、死者のための寝室や従者の控室があり、なかには馬小屋までもがあるらしい。やがて、田舎からカイロにやってきた労働者が、行き場を失ったホームレスが、墓守として「死者の住居」に住み着くようになり、誰とはなしに死者の町と呼ぶようになった。

もう真っ暗になってしまった。群れをなす野良犬の視線や、すれ違いざまのヘッドライト、闇のなかに浮かぶそんなものが落ち着かない気分にさせるので、ささっと通り抜けて繁華街に戻ってしまおうと弱気になって曲がり角を折れると、しきりに窓枠を見あげる猫をやりすごしたところに、ハイジがいた。そのときにはまだ名前を知らない。


アッサラーム・アライクム。

玄関先にだした椅子に座って通りを眺めていた女性に向かって、私はとっさに声をかけ、先を急ごうとしたのだが、定型の挨拶を交わしたあと、手招きされた。すぐには状況がつかめない。どうやら家のなかで休んでいかないか、と誘っているらしい。いつもだったら怪しんで警戒するところだが、そのときはなぜか、まったくためらうことなくすたすたと、言われるままに奥の部屋に入っていった。

というのは、黒い長衣と黒いスカーフで頭上から足先まで覆い隠され、ハイジの顔だけがまあるく切りとられて見えたのだが、骨ばったおでこ、まっすぐに通った鼻筋、ふっくらと盛り上がった頬が、街灯の光を照り返し、闇のなかでぼおっと浮かんで見えたのだ。だからと言ってなぜ警戒しなかったのか、と問い返されると困るのだが、なんとなく、アンパンマンのように見えて、悪い人に見えなかったからかもしれない。

私は玄関から入ってすぐの部屋に案内され、使い古された木の椅子に腰をおろした。シャーイ? とハイジが言った。紅茶をふるまってくれるようだ。エジプトの紅茶は甘い。砂糖をスプーンに山盛り三杯、好きな人は山盛り五杯も入れるところを見た。シャーイと呼ばれる定番の飲み物で、朝昼晩の食事のあとに、ちょっとした休憩にと、地元の人は一日に何度も飲んでいた。ハイジは、好みの砂糖の量を確認したあと、台所だと思われる奥の部屋へ消えていった。

部屋の広さは三畳ぐらいだろうか。土壁の塗装は剥がれ落ち、床のタイルは割れ、脱ぎ捨てられた靴があちこちに散らばっている。すみには冷蔵庫や湯沸かしポットがあり、頭の上に張られた紐には洗濯物が干されていた。

扉のひとつが開いたままになっていて、奥のリビングが見えた。壁にそってぐるりとソファーに囲まれていて、座面の上にスマホが無造作に転がっている。たった一つの窓は古びた段ボールで塞がれ、出窓の前にブラウン管のテレビがあった。配線がこんがらがっている。

とそこに、湯気がのぼるマグカップを手に、ハイジが戻ってきた。しばらく黙々とシャーイをすすった。甘さは控えめにしてくれたようだ。

私はハイジと何か話したいと思い、日本から持ってきたアラビア語の本を開いて、目についた言葉をとっさに口にした。レルタック・ベーダ。するとなぜか、盛り上がった頬を乱舞させながら、ハイジが爆笑している。予想外の反応に少し戸惑いながらも、張り詰めた空気が解けたからまあいいか、と私も笑顔を返す。「良い夜を」という意味らしいのだが、爆笑しているところをみると、この状況で使う言葉としてはおかしいみたいだ。あるいは、旅行中の日本人が口にする言葉としては、いささかキザっぽかったのかもしれない。

笑い声を響かせていると、仕事帰りと思われる旦那さんが帰ってきたので、お礼を伝えて家を後にした。シュクラン、アフワン。二人は玄関先に立ち、私の姿が見えなくなるまで見送ってくれた。

帰り途、歩道橋をのぼって振り返ると、南東の空に満月が浮かんでいた。黒いスカーフから覗くハイジの顔のように、明るく丸かった






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