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ア•サイエンティスト①

 注文の到着を待つ間、テーブルの右側の定位置に置いたジッポライターを手に取り、二本目の煙草に火をつける。喫茶店にまで禁煙化の波が押し寄せているせいか、以前よりも客足が増えているような気がする。この喫茶店に十何年ものあいだ通っている身としては、ここにおいて自分が古参であることの優越感よりも、店内が少しばかり騒がしくなってしまったことに対しての落胆の気持ちの方が大きい。黄ばんだガラスの灰皿に灰を落とすついでにジッポライターの隣に置いた腕時計に目をやる。午後四時を回ったところだった。約束の時刻を過ぎている。ユキはもう家を出てこちらへ向かっているのだろうか。
 「大変お待たせしました。ブレンドコーヒーのホットです」
 ずいぶん前に注文したコーヒーがやってきた。勢いよくテーブルに置くものだからコーヒーが波打ち、カップから溢れそうになっている。ずいぶんと落ち着きのないウエイトレスだ。見たところ学生のようだが、それにしても勘弁してほしい。厨房から客席までの距離をどれだけ急いだところで提供時間が大して変わらない事は目に見えている。
「ごゆっくりどうぞ」
 慣れない様子でマニュアル通りの文言を言い残し、慌てて厨房に戻っていく。その姿を確認した後でコーヒーカップを皿から持ち上げ、一啜りする。
 「ミルクはお使いになりますか?」
 思わず口に含んだコーヒーを吐き出しそうになった。先ほど、厨房へ向かってゆく背中を確かに見送ったはずだったウエイトレスの姿が今目の前にあったからだ。大きなトレーに小さな金属製の容器だけを載せていることが更に不快感を与える。
 「いや、ミルクは結構。どうもありがとう」
 動揺を見抜かれないよう平然とした様子で、厨房と客席を何度も往復する彼女の労をねぎらった。
 「ごゆっくりどうぞ」
 再び厨房へと戻っていく後ろ姿を目で追う。しかし、今回は先程のような失敗はしない。彼女の身体が厨房に完全に消えるまでは、目を離さないと心に決めたのだ。我々動物は「学習」する。ある日ケージに入れられ、病院へ連れていかれた猫は、その後しばらくはケージに近づかなくなるだろう。若い頃、犬に嚙まれた人間もまた、大人になっても安易に犬に近づくことはしない。私もまた、コーヒーを吹き出しそうになった時の焦りを再度味わうことのないように、ウエイトレスの所在を逐一頭に入れておかなければならないのだ。そんなことに気を張っていると思いがけず、視界が一面ピンク色に遮られる。
 「お待たせ。遅れてごめんなさいね」
 聞き慣れた声に反応し、ふと顔を上げると、ユキだった。相変わらず、派手な色のセーターを着ている。その中でも、どうやら今日はピンクが選ばれたらしい。
 「どうしたの、そんなに厨房をにらみつけて」
 両眉をひそめ、私の視線を辿るように振り向くと、何かを察したように頷きながら口を開いた。
 「また新人さんが入ったみたいね。若くて肌も艶々して羨ましい。たった今すれ違ったけれど、可愛らしい子ね」
 「確かにそう見えるかもしれないが、彼女は危険だ」
 「どうして危険なの?」
 「超能力者だからだ」
 ユキは一瞬顔をゆがめたと思えば、すぐに笑いだした。
 「おかしい。超能力なんて、まさにあなたが敵視している迷信の代表的なものじゃない。随分と研究に行き詰っていたと思えば、遂には超能力を信じるようになったわけ?」
 「私は今まで証明できる事象のみに囚われ過ぎていたことに気が付いたんだ。科学だけでは証明できないようなものもあるのさ。何せ私は見たんだからな。彼女が厨房からこのテーブルまで瞬間移動してミルクを持ってきたのを」
 ユキは口を右手で押さえて笑っている。どうやら「ツボ」にはまったようだ。彼女が通常運転に戻るのを待ちながら、煙草を灰皿に押し付け、火を消した。
 「冗談だ。超能力なんてあり得ない」
 ユキの笑い声が徐々に止んできた。一息つき、曲げた人差し指の第二関節で目尻を拭い、口を開いた。
 「もしあなたが本当に超能力を信じ始めたとしたら、世界の終わりが近いのね」
 「なぜだ?」
 「だって、あなた達科学者が一番嫌っているものじゃない。自分が今まですがって生きてきた考えや行動を変えることは簡単なことじゃないでしょう」
 「どうして、それが世界の終わりと繋がるんだ?」
 「もしあなたが今まですがってきたものを捨て去るとしたら、それは誰も知らない新たな始まりってことだからよ」
 思わず顔の筋肉の緊張がほころんだ。ユキの場合は修士課程までだが、私と同じく長年心理学を専攻していた。まったくもって科学者とは思えない発言だが、実に彼女らしい。いつだって、柔軟で、創造的な思考をしている。
 「何よ。どうせ非科学的な考えだって、馬鹿にするんでしょう」
 口をとがらせて、不満そうな顔で私に言った。
 「いや、君らしいと思ってな。ロマンチストだ」
 「だってその方が人生楽しく生きることができそうなんだもの」
 「そうかもな」
 そう言ってなだめてみてもなお、口をとがらせている目の前の彼女を見て、愛おしく思った。
 「それなら、もし君が無地でモノトーンの服を着出したとしたら、世界の終わりが近いな」

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