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ジェンダーが多様化している。常識が改革していく先の価値観。

2020年に海王星アスペクトによってもたらされたコロナパンデミックを経て、2021年、時代は新しく歩み始めている。世の中の占星術師の間では「風性新時代」と言われているが、日本人の勘違いによって真理がねじ曲がっているので、わたしは風がどうのという言葉は極力控えることにする。だからシンプルに「古きものが新しきものに変わっていく」と換言しよう。しかしながらこれは2021年の話だけでなく、今後何年もかけて徐々に変わっていくものだ。まるで2000年~2020年の携帯電話の進化のように。

古いものを改革して、新しきを歩むことについては、わたしは賛成だ。
チャレンジがわくわくするし、多少のスリルがあったほうが面白いから好きだ。自分が境地に立たされたほうが燃えるタイプだ。
海外ならデモ活動にも参加したかもしれないが、日本での改革活動とは何なのか。Twitterなどを通してやいのやいの言うだけなのか。それだけでは日本は変わらないので、間接的に変えることができるであろう選挙には行くのだが、正直なところ誰を選んでも真摯な政治家はいないのでは、とすら思う。
問題発言や問題行動が目立つし、それをマスコミも叩きすぎな気もするが、それによって一喜一憂するどころか、すでに呆れているというのが実情。ワイドショウから離れて平和な映画やアニメを見ていた方が楽、とさえ思う。

そんなどうしようもない日本で生活をしながら、最近のホロスコープを眺めて、もうどうにもできない感いっぱいで毎日を過ごしている。おそらくもう手遅れで、各自被害を最小限にすることを考えた方がいいのかもしれない。

そんな中、わたしが最近よく考えることは、本当は日本人はデモをしたいんだろうなってこと。例えばフェミニストなんて最たる例だろう。
魔女はつい最近まで迫害と虐殺されてきた歴史もあり、フェミニスト・ウィッカという派がある。日本人よりも欧米人のほうがフェミニズムに関しては根が深い。だからわたしもその辺の歴史を勉強しているし、わたしもその考えに依る部分もある。

でも日本人的なフェミニズムは、女が女であることを可哀想に思ってほしいような、そんなニュアンスが込められている気がする。セックスや出産が痛いとか、女だけが被害者のような言いようである。そんなことを言い張る占い師や魔女もいる。
しかしわたしは、それはフェミニズムではなくて、ただの個人の主観だと思っている。つまり女だから、というのではなく、その「個人」が訴える痛みや被害なのだろうと思うわけだ。(主観に陥った占い師や魔女は修行不足とも思う)

それに女だから、という理屈がまかり通るのであれば、その逆もまた然りということになる。男女は陰陽だから。どちらか一方が特別ということができない。女の胸や尻が突出するのが悪いとすれば、男も喉仏や男根が突出するのが悪いということになる。しかし女は突出した胸や尻を有効活用する時もあるので、絶対悪ではないはずだ(男もまた然り)。

そして最近では、同性愛・同性婚、性同一性障害、LBGTなど様々なジェンダー的な改革が行われている。わざわざプロフィール欄にLBGTと書く人もいる。しかしわたしは、ずっと先の未来まで視野に入れればジェンダーの感覚はマナーのように認知されるのではと考えている。

わたしのことを話すと、体は女で自覚は男である。ただしそこに性的志向は関与されないので、好きになったりセックスは男とする。俗にいう「FtM」というやつだ。
子供の頃から同性(女)に対して嫌悪感があり、異性(男)友達との趣味嗜好が合う。男とセックスをする時に違和感があるが、できないこともない(諦めていると言ったほうがいいのかも)。出産を経て娘もいるので性転換まで望まない。
こちらはジェンダー的思想から綴った私の写真集。

ただ、そういった内情を知らない男女から勘違いされることが多い。
例えば、男友達と話が盛り上がっている時、周囲からは「仲の良い男女」と認識され、「あのふたり付き合ってる」とか「あの子はあいつが好きなんだ」と勘違いされる。「男たらし」とか「彼氏あさり」とも言われる。超うざい。
男友達に彼女ができると一応遠慮しなければいけないのも面倒である。ただ、そこまで友達依存もしてないので、孤独はそれはそれで生きやすい。

「男っぽい性格だよね」とよく言われる。これを言われるたびにちょっとうざい。男っぽいとか、女っぽいとか、そういう言葉を使わずに「サバサバしてるよね」「ネチネチしてるよね」という言い方もできるはずだ。
女の体を有してるので、男から迫ってくるときもある。女体を戦略として使うこともあったが、だいたい面倒な結果になるか、わたしが早々に冷めることが多いので、迫られたときは霧のように消えることにしている。

しかしわたしはこれらのことを特に不便だと思っていないのだ。勘違いされても構いやしない。
別に自分が男だろうが女だろうが関係ないと思っているので、こうしたことをこれまでに公言してこなかったし、プロフにアルファベット表記してわざわざ型にはまるのも嫌でやらなかった。
わたしは自分は自分だと思っているので、それ以上でも以下でもないし、性別に左右されることもない。自分が着たい服を着ればいいし、自分がしたいヘアスタイルでいい。

誰にも左右されないし、誰の意見も興味ない。
人からどう思われるかよりも、自分がどう生きたいかで決めている。だってどうせわたしのこと完全に理解できないでしょ?と高を括っている。
また、わたしがそう思うのと同時に、相手のことも男女で見ないようにしている。わたしは女に対して嫌悪感を抱くが、体が女だとしても正直でサバサバした人はたくさんいる。そういう人とは、性別関係なく友達になれる。

今までが土星の制約・制限・圧力に支配されて表に出せなかった部分が、近年になって表面化してきただけだと思う。わたしは魔女ということを表に出すけど、性別は重要視していないから出さなくてもいい。たぶん、表に出したり、枠組みにはまるからにはその点で改革していきたい(デモ活動したい)ということの現れなのだと思う。

言い換えれば「多様性の時代」なのだ。どんなかたちや考え方があってもいい。けれど、先のフェミみたいに、個人の主観を全体の意見のように履き違えてはならない。出産やセックスに対して痛みや被害を感じない女もいるかもしれない(実際に、わたしは出産やセックスで痛くはなかった)。

また、LGBTでも公言する人もいれば公言しない人もいる。多様にいるということも知ってほしい。女同士・男同士であっても、それで一括りにできないし、異性同士に見えても実は違った感覚がそこにはあるかもしれない。これは法律で同性愛や同性婚が認められたとしても、この感覚を具現化することは難しいので、いずれは社会のマナー的な位置づけになるんじゃないかと予想する。

すべての「当たり前」や「常識」が今後崩れていく。
ホロスコープでもあったように、どんどん多様化する社会を形成していく。いろんな人がいて当たり前で、自分とは違う感覚を持つことを知ってほしい。また、そうした人々の頭の中を、憶測で判断しないでほしい。相手の感覚を知るには「対話」しかない。今こそ哲学書が必要だ。


追記。

反響が大きいようで、もう少し詳しく書いておくことにする。

幼いころから「女の子らしい」服装と髪型に親がこだわったせいなのか、それとも先天的な何かがあるのかはわからないが、小学4年生(ちょうど生理がはじまったころ)から徐々に「女子であること」に違和感を抱き始める。

当時は男女の区分がまだまだ明確に残っていたので、そこから逸脱すると交友関係も崩れるので、深く考えるのをやめて流れに任せて「女子でいる」ことをした。親は髪を切らせてくれなかったが、私は長い髪が嫌でたまらなかった。
服装に関しては、スカートもブラジャーもショーツも嫌いではなかった。むしろ面積が狭い服装は女子しか着れないと思うと、そこに特別感を感じて、好んでタイトな服を着ていたように思う。下着の上下のセットアップでおしゃれができることも女の特権だと感じた。

わたしが一番違和感があったのは、わたしが楽しいと思う方面が、一般女子にとって楽しいと感じないらしいことだった。例えば、小学生のころCAPCOMのバイオハザードシリーズにハマって、ナイフや銃などが大好きなオタクになった。授業中にノートの隅にナイフや銃の絵をかいて遊んでいたら、隣の席の男子と意気投合して落書きしまくったのが楽しかった。
そのころ女子は、服とか漫画とかセブンティーンとかジャニーズとか、そういう話ばかりでつまらなかった。そんな時間を過ごすより、家でぷよぷよしている方が有意義に感じたりもした。

わたしは持病があって体育の授業が苦手だったが、当時はそういうことを親が先生に言うのは恥ずかしいことだったから(もしかしたらただの親の見栄なのかもしれない)、痛くても苦しくても毎日学校へ行っていた。
ある日、不真面目にやっているように見えるわたしに、先生が「男子(チームメイト)に謝ってこい」と促した。わたしは、なぜか?と思った。わたしが悪いのはわかるが、謝るなら、男も女も関係なく、チームメイト全員にではないか?
謝りに行くと仲のいい男子は「運動ができないくらいで謝る必要はない」と言った。まあ、そのとおりだ。そして女子にも謝った。「授業くらいで謝る必要ある?ゲームでしょ?」と言った。そのとおりだ。

男子の和の中に入りたいが、女子扱いされるので、考えることをやめて女子と過ごしていたが、だんだん女子と一緒にいることが苦痛でしかたなくなる。こらえきれなくなって、男子の和に入るも、「付き合ってるのか」とか「好きなのか」と茶化される。親までもがそう言ってくる。うざくなってまた女子とつるむ。でも苦痛になる…この繰り返しで子供のころを過ごしていた。

たまにゲーマーの男友達数名と遊ぶのが楽しかった。当時はビーマニとか、DDRとか、麻雀ばかりして遊んでいた記憶しかない。女子っぽくピアノや、手芸や、料理や、園芸もできるけど、それが得意じゃない女子もいるし、そもそも女子だからとかでこういうことを区分したくない。男子っぽい趣味とかもよくわからない。単純に好きだと思うことをしているだけで、趣味に性別は関係ないように思う。

年頃になってくると彼氏彼女の話で盛り上がるが、彼女が彼氏のことを友達に相談したり、場合によっては悪口になったりするのがよく理解できない。本人と対話すればいいだけなのでは、と思ってしまう。逆にわたしは彼氏から彼女のことを相談されるとき、同じことを言うけど、単純に「じゃあ話してくるわ!」で終わる。女子はずるずる妄想話をする。この時間が無駄なのでぷよぷよやりたい。

女子がトイレにたむろしていると、わたしはトイレで用をたすことが苦痛でならなかった。なぜトイレにたむろするのかようわからんし汚いと思わないのか。体の構造上、男子トイレに入るわけにもいかないし、わたしも頭では理解しているので女子トイレを使う。でもものすごく嫌な気分でしかたない。なのにたむろする女子…なのでわたしは別棟のあまり利用されないトイレを使っていた。

部活でも男女の区別があるから、わたしは帰宅部が多かった。スポーツ部ではなくても男女を区別しなければならないということに違和感があった。どうしても女子の中にいる自分という位置づけが嫌だったし、高校生にもなるとみんな思春期で同姓以外と話すことをあまりしない。わたしも男と話したくても話せない。女とも話したくない。そうしているうちに孤立して、そのタイミングで病気になって高校を辞めたのが幸いだったかもしれない。これ我慢してたら精神やんでたかも。

でもたぶん、周囲にもなんとなく伝わっていて、時折変な目で見られていた。だから近年になって自分のジェンダーについて気軽に打ち明けられるというのはいいことなのかもしれない。とはいっても学校のシステムが変わらないから、結局自分が考えることをやめて、適当に流れていけなければ、やむと思う。

それなりに男と付き合って、それなりに経験して、出産もしたけど、わたしは夫婦というものの違和感については克服できなかった。今でもそうだ。夫婦はいつでも(時には同意なくても、あるいは結婚した時点で同意しているのだから)セックスできると思っている人がいる。実際そういう理論なのかもしれない。けれどもわたしにとって男とセックスするのが違和感があって、多少なりとも心の準備と覚悟が必要なのである。その違和感とは、「友達同士なのにするのか?」ということ。好きは好きで、愛してもいるが、その好きが友達に対する好きとか、友達と一緒にいて楽しいといった意味が大きい好きのような気がする。あるいはわたしが持っていない男の肉体についての尊敬の念が強い。

かといって、女とのセックスは嫌悪感しかなかったんで、そもそも女は好きではないということがわかる。ということはわたしはどこに落ち着いたらいいのか、落としどころに途方に暮れる。まあとりあえず、体は女だからできないこともないので我慢していると、結局精神的に負担で離婚する。

今は再婚しているが、この人(男)とは趣味や嗜好が同じベクトルで何も苦痛を感じない。だから同じような経緯で悩んでいる人は結婚をお勧めしないとか、結婚すべきではないという主張ではなく、わたしとしては「合う人同士だったらうまくいく」と考えている。それこそ、男女の性別関係なく、人として付き合うことができるから。

どんな考え方も、その人それぞれであって、決して同じに枠組みすることはできないと思っている。わたしは女でいることや、女友達の間に違和感があったのが始まりだが、そうでない人もきっといるはずだ。だからそれを否定するわけではないが、わたしがあまり感じなかったことも書いておく。

まず「男になりたい」とは思ってない。よく女が男になりたいと思うのがFtMでしょ、と勘違いされる。まあそういう人もいるかもしれないがわたしはそう思ってない。男は男で大変そうだな、とは思う。
先の下着の話でもあったように、わたしは割と服装や髪型を決めつけていないので、何を着ても自由だと考えている。むしろ歳をとってからは、ふだんの服装は手抜きになっていて、若かりし頃のアート作品のような、ほぼ裸なのような、あんな服はもう今は着たくないな、と思う。家にいるなら裸で過ごしてもいいと思うし、スカートもはくし、男のパンツもはく。下着をつけない時もあるし、コテコテのゴシックになるときもある。服装はその時のわたしの表現のひとつだから、男女がどうとか本当に関係ない。

髪も伸ばしたいなら伸ばすし、服も男服がいいなら着る。健康のために運動をしているが、男になりたいからではないし、胸を小さくしたいとも思ってない(胸が邪魔だと感じるときはある)。わたしは癌をやっているので、もう子供を産まないのであればそこを摘出してもいいと思うが、とりあえずまだある。再発したら摘出すると思う。ただ自ら進んですぐになくそうとか、生理が嫌だからピルで止めようとかは思わない(というかピルが体に合わない)。

一貫して、わたしが願うのは、ただ「自然に生きたい」それだけだ。なにも無理しないし、なにも我慢せずに、自分を表現できればいいと考えている。そこにある男女の常識や認識が、他者と違っているとしても別に構わない。わたしの感覚を理解できるのはわたしだけだと思っているから、理解してもらおうと思っていない。その分、あなた(他者)も無理せずに、我慢せずに、自分を表現してよ、と思う。

そう思うと、社会的な抑圧や法律などは関係なく、自分を表現できるのではないか。そもそも社会で認めてもらおうなんて思ってない。
同性愛も、日本の男同士の寝間もあるし、キプロス島の女同士の寝間もある。ふつうに昔からあった話だ。一部の人間が宗教や政治のために禁止しているだけだ。かといって、もちろん周囲の人にも認められて幸せになったほうがいいと思うので、一概によしとされないかもしれない。でもわたしは最低限理解しあえる人同士が、自分たちを表現しあって、無理なく、我慢せずに、「自然に生きる」ことが最高にハッピーだと思う。


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