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海のなか(19)

***


 なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう。
自分の言葉を反芻するたびに嫌気が差した。
 『夕凪、あたしが探してこようか?』
 自分でやったことのはずなのに。あんなことをしてしまった自分がわからない。あたしは夕凪を避けていたはずなのに。あの子に会いたくない、はずなのに。
 こういう時がある。勘ではまずいとわかっている。悪い予感に急かされながら、それでも選んでしまう。まるで愚かさに毒されているような。
 あたしは束の間のスリルを欲しがっているんだろうか?過ちは蜜のように甘い。それは痛いほど知りつくしたあたしの悪癖だった。
 それとも陵の手助けをして印象をよくしたかった?あのやりとりに味を占めたから。
 ああ。本当にいやらしい。
 そうは思いつつも陵との会話が頭を離れなかった。あの充足感が忘れられない。
 けれど、ふと気づく。こんなに満たされていいんだろうか。あたしはもっと欲しがるべきだろう。だって陵が好きなのだから……。
 その気付きは身体の暖かさを一気に抜き去っていった。
『あたしは悪くない』
 手に力が籠ると、ビニール袋がガサっと音を立てて傾いだ。慌てて水平に持ち直す。中にはお昼ご飯に買ったお好み焼きと唐揚げが1パックずつ、それから揚げパンが二つ入っている。あとで沙也と合流して一緒に食べるつもりだった。
 図書室は1号棟の最上階、3階の一番奥にある。あんなに騒がしかったのに、今は耳鳴りがするほどしんとしてどこか息苦しい。誤魔化しの効かないような孤独があたりに立ち込める。自分の足音をこんなに大きく感じるのはいつぶりか。
 あたしはほとんど本を読まない。漫画すら読まない。唯一読むのはファッション雑誌くらいなものだ。兄の唯河は漫画もゲームも好きみたいだけど、あたしは特に影響されることもなく育った。兄は兄であたしと趣味を共有することを早々と諦めたから、それも大きかったのかもしれない。あたしが妹でなく弟だったなら、少しは違ったのだろうか。そんなことを時々考える。
 陵と知り合って少し経った頃、本を勧められたことがあった。とは言っても、あたしは読んでいた本について尋ねただけなんだけど。「今読んでるの、どんなやつなの」って。彼があまりにも幸せそうな顔をして文字を追うものだからつい尋ねてしまった。あの眼差しは今も胸の奥深いところにしまってある。まるで宝物みたいに。
 陵は「サンショウウオ」と答えた。「イブセマスジ」とも言っていたっけ。作者の名前がそんな感じだったのを覚えている。昔から人の名前を覚えるのは苦手だ。サンショウウオもイブセマスジも知らないあたしは当然、どんな話、と尋ねた。すると陵はただ微笑んだ。そこでこのやりとりは終わったわけだけど、翌日珍しいことが起こった。陵がうちのクラスを訪ねてきたのだ。手には一冊の文庫本が握られている。ご丁寧に藍色のブックカバーまで掛けてあるのが彼らしかった。
 「昨日のあの本は図書館のだから貸せなかったんだ。同じやつじゃないけど俺の持ってる本にもサンショウウオが入ってるやつがあったから、よかったら……」
 やけに饒舌なのに、どこまでも控えめなその態度に気を取られて、なんとなく本を受け取ってしまった。あの微笑みの裏でこんなことを考えているなんて思いもしなかった。そんな意外性もまた、あたしを惹きつけたのかもしれない。
 『サンショウウオ』をあたしはなんとか読み通したけれど、結局よくわからなかった。あたしが蛙なら、山椒魚を許すことなどしないだろう。そんな底の浅い感想しか抱けなかった。まるで小学生の作文みたいに稚拙で、虚しい。面白いとかつまらないとかそういう簡単な判断すら下せない。ただひたすら理解できないのだった。きっと、陵にはあたしには感じられない何かがわかるのだろう。でなければあんな表情は浮かべられない。その時の気分は、今までの人生で何か大切なものを手に入れ損ねていることに不意に気付いてしまったような感じだった。
 わかりやすく言ってしまえば、羨ましかった。あたしは陵に嫉妬した。同時に惹かれてもいた。ひたむきに向き合える何かがある彼に。
ーーそうしていつしか、あたしは陵に対してだけ湧き出すこの感情に「好き」という名を与えたのだった。
 気がつくと、図書室のドアはもう目の前だった。やはりここはひんやりと寒くて居心地が良くない。嫌なことは手早く済ませてしまうに限る。あたしは一つ深呼吸すると意を決して引き戸に手をかけた。


***

海のなか(20)へつづく。

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