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エッセイ・『明星』



 その日はひどく疲れていて、かなり早く床に着いたのを覚えている。
 ところが、なかなか寝付けない。家族の生活音を遠く聞きながら、何度目かの寝返りを打った時こんな会話が始まった。
 「大変ご迷惑をお掛けいたしました」
 「いえ…早くご対応いただいてありがとうございます」
 業者の謝罪に私は応えた。
 一人暮らし先に業者を呼んで壊れたドアストッパーの修理を依頼したのだ。そして作業はどうやら完了し、これから業者は帰ってゆくらしい。代金は補償があるためかからない、とのことだった。
 帰ってゆく姿を見届けようとした矢先、業者の男性はこう告げた。
 「お客さま、当方の従業員より少々お話がございますがよろしいでしょうか」
 「はい。どういったことでしょうか」
 すると、見知らぬおかっぱの男性が進み出てきていきなりこう言った。
 「あの…うるさいのはどうにかなりませんか」
 「は?」
 聞き返すと、おかっぱ男は怒りを露わにしてさらに言い連ねた。
 「だからっ…ドタバタしたり、大きな声を出したりをやめてほしいんです」
 彼の声は大きく、ほとんど恫喝に近かった。思わず気圧されてしまった。だが、何が何やらさっぱりわからない。救いを求めておかっぱの上司らしき男性に視線を送ると
「お客さま、彼はお客さまの隣の部屋に住まわせていただいておりまして…」
 なるほど。と腑に落ちつつ、一番に思ったのは「痩せなければ」と言うことだった。私の部屋は一階にある。なのに隣まで足音が響くとは尋常ではない。間違いなくこの一月ほどの体重増加のためだろう。早急に痩せねばならぬ。
 「はあ。すいません、気をつけますね」
 そんなことを考えながらだったので、返事はやや間が抜けたものになった。それがおかっぱの気に障ったのかもしれない。
 「本当に気を付けてくれるんでしょうね?!」
 「はあ…」
 「あなたは僕がどんな思いでこちらに引っ越してきたかわかっているのか」
 と言い始めた。その後も色々と話していたが細かくは覚えていない。面倒臭くなったからだ。要約すると男性には精神的な障害があり、ツテを頼ってこちらになんとか職を探してきたというような話だったような。
 それに、この時点で私はあることに気がつき始め、おかっぱの話どころではなかった。それは、これは夢なのではないかということだった。私の住処は相当な田舎にあり、こんな振る舞いをすれば身の置き場を失いかねない。村八分である。そう考えると、おかっぱの振る舞いはいささか非現実的だった。というか、夢であってほしい。なんか苛々するし、もう面倒臭い。
 夢だといいな〜と思いつつ、気がつくと、私は早口で捲し立てていた。
 「あなたの事情はわかりました。けど、それって私に関係あります?ありませんよね。同情してほしいってことですか?私は今、改善しますと申し上げましたが今それ以上のことをできるとは思えません。」
 とか、云々カンヌン。とにかく相手をものすごい勢いで罵倒していた。あーやっちまったぜ。と思っていると、なにやら音が聞こえた。蛙の声である。ゲッゲッゲッゲッと切間なく鳴いている。ひどく馴染みのある音。
 するとようやく闇の中で目が開いた。やはり、あれは夢だったようだ。あれだけリアルな夢なのに、目覚めた途端おかっぱの顔も思い出せなくなっていた。家人は寝静まったのか、蛙以外の音は無かった。
 時折こうした悪夢を見る。私の夢はいつもつまらない。現実的で起きている間に起こるようなことばかりだ。しかも大体辛いことだったりする。これはわたしにとってなかなかのコンプレックスだった。夢なんだから空くらい飛びたい。(崖から落ちたことはある。所謂自由落下というやつだ)なのに、そんなささやかな望みは一度として叶ったことがない。少なくとも、わたしは覚えていない。
 またしょうもない悪夢を見たことが悔しいからか、そこからしばらく寝付くことができなかった。1時間もすると諦めの気持ちが出てきて、仕方なく、身を起こすことにした。真っ暗なリビングに向かうとすでに空は白み始めている。だが室内は依然、夜の闇に満たされていた。眼鏡をかけない朧な視界では明るいときでさえ、像を正確に捉えることはできない。暗い時ならなおさらだった。だが、わたしは何事もなくリビングの中央へ歩いていった。勝手知ったる我が家である。見えなくてもどうということはない。どこに何があるかは把握している。こういう時は、自分がプチ超人になったようで気分が良い。昔から、夜は気分が高揚してしまう。
 すると、何者かの足音がした。猫である。猫のピンと立った鍵しっぽが月光で白光りする床に浮かんだ。
 「チャビ」
 名前を呼ぶと彼女はものも言わずしゅるんと足元に纏わり付き、体を横たえた。撫でろということらしい。応じないわけにはいかなかった。触らせてもらえる機会は貴重だ。飼い猫なのに。野良じゃないのに。
 ひとしきり腹を撫でてやると気持ちよさそうに喉を鳴らして体を伸ばしていた。だが、そんな気分は唐突に終わりを迎えた。素早く立ち上がるとチャビは縁側へ向かった。彼女は窓の外を眺めるのが大好きなのだ。1日のほとんどをその窓辺で過ごしている。その後ろに追従するが、横並びに座ることはない。邪魔にされてしまうからだ。
 仕方なしに、真後ろに陣取ると毛並みをサラサラと撫ではじめた。キジトラ猫は撫でることを許したのか、それとも景色の方が興味深いのか。ーーーおそらく両方だろう。彼女の関心は外界へと惜しみなく向けられていた。窓の外は闇色が薄くなり朝の気配を纏っていた。猫の輪郭がぼんやりと月光に浮かびあがるのを眺めつつ、いつだったか本で読んだ記述を思い出していた。猫は闇の中でも人間の3倍見えているらしい、というものだ。逆に視力は良くない、とも聞く。
 チャビにはどのように世界が見えているのだろう。私がごちゃごちゃ考えている間も彼女はひたむきに外を眺め、音に耳を傾けていた。その真っ直ぐな眼差しがやはり恋しい。わたしもそんな生き物になりたいと思わずにはいられない。
 大人になってしまった今では秘密のことだが、人生上で幾度となく「来世は猫になる」と口走ってきた。大人になってからもその思いは変わらない。ーーーーこの世はわたしには、複雑すぎる。
 猫は一度もわたしを振り返らない。手の動きに合わせてわずかに頭を上下させるだけだ。諦めて、毛並みから手を離した。このままだと心地よさに任せて、際限なく撫でてしまいそうだった。自室のベッドに横たわると、既に悪夢の余韻は消え去っていた。瞼を閉じる。今度こそ眠れそうな気がした。
 不意にパタリ、と音がした。それは猫の耳が起き上がる音だった。黒い猫の影が蘇る。本当はあの後ろ姿を、いつまでも眺めていたかった。きっと猫は今も窓辺で耳を澄まし、朝を待っているのだろう。そして私は、その光景を夢の中で再現するのだ。その遠い後ろ姿がいつまでも色褪せぬように。





おわり。

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