小説・海のなか(11)
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外に踏み出すと、すでに薄暮が降りていた。あれが最後の夕日だったらしい。と、殊更に赤く染まっていた夕凪の頬が頭を過ぎる。違和感を覚えて掌を上に向けてみると、僅かに濡れる。霧のような雨が音もなく降っていた。思わず顔をしかめた。雨に濡れるのは好きではない。眼鏡をかけている身としては尚更だ。
舌打ちでもしたい気分で走り出した。何かの報いを受けたような気がした。夕凪の家からそう遠くない距離に我が家はある。だからといって全く濡れないというわけでもない。今日に限っていつもは忍ばせている折りたたみ傘を抜いていた。辞書が嵩張るせいだった。高校に入ってから何度電子辞書が欲しいと思ったかしれないが、親には言えるはずもなかった。うちは決して裕福ではない。経年劣化の激しいものにかける金はなかった。
久々にくさくさした気分を抱えながら走っていると、赤い傘が目についた。道の反対側を小学生くらいの女の子がこちらに向かって歩いてきていた。瞬間、傘の影に隠れていた少女の顔がほんの少し見えた。
気味が悪いほど美しい少女だった。まだ幼いのに完成されすぎているのだ。好き嫌いを飛び越えて見るものを惹き込み、挙げ句の果てには堕落させてしまう、そんな魅力に満ちていた。しかし、その魅力は何も優れた容貌からのみ発しているのではなかった。少女の右頬は古傷で縦に切り裂かれていた。この傷が重要だった。傷がある事で美貌は確実に退廃的な引力を増していた。
少女とすれ違う一瞬、こんな声が聞こえた。
「あれが此度の犠牲か。楽しみだ。楽しみだなぁ。海神もお喜びになろう。ふふ。ふふふ。ふふふふふ」
暗い歓びを含んだ女の声だった。足元に忍び寄るような低い響きだった。首筋が逆立つのを感じ、とっさに振り向くとそこには誰もいなかった。
気のせいだと思いたかった。けれど震える体の感覚はあまりにも生々しい。目を凝らすように赤い傘と少女の姿を探しても虚しいだけだった。どれほどの時間そこに立ち尽くしていたのかはわからない。けれど、気がつくと私はもう自宅の玄関に立っていた。背後から聞こえる雨足は強い。重く濡れた前髪からは滴が滴ってローファーを濡らしていた。
「…シャワー、浴びないと」
自分の言葉が空虚にきこえる。この胸のざわめきがそんなものでは治らないことは確かだった。脳裏にはまだ、少女の呪いのような美しさが褪せることなく染み付いていた。なぜかはわかっていた。私は昔からあのゾッとする感じを時折味わっていた。
あの少女は、そう。
どこか夕凪に似ていたのだ。
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