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司書の使命とはなんだろうか。

#クロミミ的読書論

お久しぶりです。クロミミです。

新年度になってから少し経ち、落ち着いてきました。今日は久々に、司書関連で語りたいと思う。

というのも、今年度の人事異動で一つ大きな変化があったから。実は私、今年から学校専属の学校司書になりました。ちなみに四校兼務です。

なんでしょうね、最近のトレンドなのか私には一年半おきに大きな変化が訪れるようです。



そんなわけで、色々と考えていくうち一つの出来事を思い出しました。

それは、高校の国語教師である母としたある喧嘩のこと。

それは、「読書」をどう考えるか。という根本的な問いに対する議論。

……いえ。そんな上等なものではない。意地の通し合いでした。

私と母では読書を薦める際のスタンスがほぼ真逆だったのです。

母は、この年齢ならば、このくらいの本を読むべきという目標ありきで最初からそれを提示し目指させる。


私はというと、まず現状を把握しその人が読めるであろうものから始め少しずつ難易度を上げていく。という方式。


どちらが正しいというのではありません。もっというならどちらも正しいのです。

ただ、わたしがいわゆる階段状の方式を選んだのには過去の苦い経験が関係しています。

思春期の頃、わたしは一度読書が本当に嫌いになった。

それは、母の「このくらいの本を読むべき」について行けなくなったことが原因でした。

それでも結局、わたしは読書を嫌いになれなかった。

けれど、

「あの時読書という最大の楽しみを自ら捨てる可能性があったのだ」

そう思うといつでも腹の底が冷え、奈落の底を覗き見るような思いがします。きっと、私は一生母を許すことは出来ないでしょう。きっと一生「あの人のせいで」と心のどこかで思い続ける。そう考えただけで、息苦しい。けれど、逃れられない。これはわたしの業なのです。


だからこそ、わたしはいつも「本を読めるようになる」前に「読書を愛して欲しい」と思っています。


たとえば、小学校6年生であっても、3年生の子でも読めるような簡単な書籍しか読めない子はたくさんいます。

そういう子にいきなり6年生相当の本を手渡したからと言って読めないでしょう。

一例を示すなら、
「大きなクマさんと小さなヤマネくん」シリーズ

「ハリネズミのルーチカ」シリーズ

「つるばら村」シリーズ

盆まねき

このように階段状にすることで、少しずつ読めるようになる。
ある時、
「こうした(階段状に本を薦める)取り組みをすべきではないか」
と、教師である母に持ちかけたことがあります。

しかし、彼女は取り合いませんでした。
読書教育にこの上なく熱心な教師にも関わらず、です。(彼女ほど熱心な人はあまりいないのではと思います)

そして、母は
「そこまでしないといけないかな」
ぽつりと言ったのです。
 その時初めてわたしは気がついた。学校司書と教師との違いに。

教師は明確な目標設定をして、そこへ到達できるよう教育することが使命。

ところが学校司書は違う。

学校司書には明確な目標など有り体に言えば存在しない。
ただひたすら読書の魅力を説き、その真髄をより多くの人を知らせることが目的と言える。


そう。学校司書に課された使命とは単に読書をさせることではない。
司書は知ることの悦びを実感させること。
読書のその向こうに無限に広がる知識と知識の絡み合いがあることを知らせること。

それこそが大切だと思うのです。


だからこそ、まずは読書を好きになって欲しい。
自ら「知りたい」と思える人になって欲しい。
そう願っています。

だって学ぶことはこんなにも楽しいのだから。

わたしは大人になって、はじめて「知る悦び」を知ったのです。


クロミミははてなブログにて、「KUROMIMIには本が足りない。」を更新中。ぜひご覧ください。

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