小説・海のなか(34)
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もう何度目かの物思いから回復すると、あたりは薄暮だった。つい先程までははっきりと見てとれた物の輪郭が一気に崩れ薄闇へ溶けようとしている。一瞬、自分の視力ががくんと落ちたかのような錯覚に襲われた。刻一刻と世界は曖昧さの度合いを強めていく。ふと、このまま盲目になってしまえたら、と思った。知らないということがどれほど幸福なことなのか、見えていないということがどれほど幸福なことなのか、わたしにはもう痛いほど分かっていた。
けれど、それでも知りたいと思うことは止められなかった。真実を知ることできっと支払うことになる代償。それがどれだけのものか、ある時点からわたしは考えることを放棄していた。そうして海から帰った数日前から、夢でも現でもある場面を追い続けている。
13年前のワンシーン。あの日溺れた記憶を頭は絶え間なく再上映しようとする。何度も繰り返すうち、今ではもう手に取るようにくっきりと思い出せた。ただ、一部を除いては。祖母の手の温かさ。その乾いた肌。海を訪れるたびに繰り返した祖母との約束。「手を離しません」と合わさる声。どれほどあの日が暑く、太陽が肌を焦がしていたか。ミルクアイスの幸せな味。いつも被っていた麦わら帽子が祖母から買い与えられたお気に入りだったこと。海へと足を踏み外した時の浮遊感。聞いたことのない切迫した叫び。そして力強く抱く腕。深く美しい海中の色。
けれど、克明に思い出せるのはそこまで。あとはフィルムが焼け焦げたようにブラックアウトしている。きっと溺れてすぐ意識を失ったからだろう。予想はついているのにどうしてもその先に手を伸ばすことをやめられない。同じ場所に意識が縫い止められていて、どの経路を辿っても最終的にはそこにたどり着く。どこにも行けないどん詰まりでずっと足踏みしている。
なぜこんな思考に陥っているのかは早々に分かっていた。他ならぬわたし自身がこの状態で居続けたいと心の底では望んでいるからだった。この行為はもはや自慰行為に近いのかもしれなかった。自分の傷をさらに抉り、そこから滴る血を見て悦びを感じている。そんな歪んだ感情の高まりがないとは言い切れない。思い出したその先で自分が、青がどう変わってしまうのかその一瞬を見たくてたまらなかった。
けれど暗い愉悦に心を浸していると、不意に心が虚になった。この悦びが偽りであることに本当は気がついていた。いや。偽りというのでは誤りだろう。この感情の奥に潜んでいるものをわたしはすでに知っているのだ。あの日、祖母の白骨を愛おしく見つめる青を見たその時から。
「嫉妬…」
青と祖母の関係はわたしがずっと求めてやまないものだと本能が叫んでいた。きっとそれは幼いあの頃には祖母に手を引かれて歩くだけで手に入っていたはずのものだ。自分が青に嫉妬しているのか、祖母に嫉妬しているのか、分からないほど勝手に心は乱れる。今まで生きてきて、激しい感情を抱いたことがなかった。いや、もしかしたらかつては大きな喜怒哀楽なんてものがあったのかもしれない。けれどそれを記憶し続けるには、あまりにわたしは自身に対して興味がなく、同時に無感覚だった。どんな辛いことや苛立つこと、悲しいことがあったとしても、ひたすら目を逸らし、耳を塞ぎ続けていればいつかは通り過ぎてゆく。喜びも悲しみも全てを忘却し無かったことにしてしまう。それが17年余りずっと続けてきた、なけなしの処世術だった。長い時間かけて築き上げた脆い壁が、今音を立てて崩れ去ろうとしていた。壁を壊したのは他でもない自分自身の激情だった。思えば今年の夏、青に再会したあの時から既に感情は目覚め始めていたのかもしれない。手に余るほど猛々しいそれを、今更どう扱えばいいのかも分からず実のところ途方に暮れていた。自分の醜さと正面切って向き合うには、わたしは成長しすぎて、屈折しすぎているように思えてならなかった。
俯いたまま、泥を呑むように重い気分をため息と共に吐き出す。すると、何者かの足音がした。少し目を挙げると、白いスニーカーが視界に映った。
「誰か、そこにいる?」
若い男の声だった。顔を上げて見ると、そこには制服姿の陵が立っていた。
「…夕凪?」
彼の髪を靡かせる夜風は肌寒く、既に冬の気配を含んでいる。陵の背後にはうっすらと白い半月が昇っていた。
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小説・海のなか(35)へとつづく。
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