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Zガンダムの第一期OPから哲学の波動を感じる、、、<前編>


作品の意味を勝手に解釈するということ

 いろいろな音楽を聴いていると、「あ、この曲はまるで哲学的だなー」と感慨深くなることが多々あります。まあ、勝手につなげているだけなのですが、ただしそれも音楽の正しい楽しみ方であり、哲学のひとつの正しい見方でもあるとも思っています。

 どういうことか? 
 創作物の意味や価値は、作者が決定しきれるものではないというような考えでモノを見る選択肢もあるということです。
 哲学・文学が数多と生み出してきた価値観の中に『作者の死』というものがあります。仏の哲学者 ロラン・バルトが1967年に文芸評論誌で発表した論文にでてくる言葉であり、私が行っているのはその言葉の実践、拡張、延長です。

「作者の死」
テクスト(文章や作品)の意味が作者の意図や背景に依存せず、読者によって自由に解釈されるべきだという考えです。作者の意図は特権的な意味を持たず、作品が発表された瞬間に作者は「死に」、読者が作品の意味を生み出す主体となるという主張です。

 哲学においては理論上はこれに反論することはできるでしょうし、単純に好まない人もいるとは思います。あるいは非合理的だと思う人も。数学や科学の影響を受けて、哲学を自然言語ではなく方程式で記述しようとするような分析哲学と呼ばれる分野もあるぐらいですから。
 また文学をはじめとする芸術分野もそういうところがある。(分からないように作っておいて、勝手に解釈したら怒られるのも皮肉な話ですが  笑)
 実際、岡田斗司夫という元アニメプロデュサーの方のアニメ解釈論みたいなのが流行りだしてることを、創作界隈の一部では多少冷ややかな目で見ている人もいるようです。まあ権威もあり実績もあり、あげく話術がうまい人に「誰も気付けるわけないんだけどね、〇〇ってのは、△△っていう意味で書いてあるんだ」と言われると、素直に全てに応用しちゃう人はいそうではある。

ただ、解釈なのか説明なのかはTPOに応じて明示してほしい

 必要な時以外は”説明”と”解釈”を言い分けて話すことは大事だとは思う。インターネットという空間では短い時間でモノを伝えないといけないことが多い。ネット記事のタイトルは10~20文字とかでクリックしてもらうため。youtubeならサムネ1枚で動画に呼び込んで、最初の30秒とかの時間で視聴者に有益な情報を流し込まないといけない。
 (noteのように長い文章を読んでくれるような人はとても我慢強いタイプの人かもしれない、有難い話である)

 それら結果として、とかくメディアは”断言”することが有益になりがち。
哲学者としては「おいおい、そんな10数秒で片付けられる問題じゃねーだろー!」と言いたくなるときもある。
 (まあ、実際には哲学でも社会でも、とにかくどっちかに決め切ったほうが正解なこともある。仮に悪い方をえらんでも選んだ時間が少ないほうが傷も少ないという場合もあるしね。むずかしい、困る)

 ただ、そのあたりは今回は置いておこう。また掘り下げる機会はあるようにも思う。

そして歌に話を戻す、『Ζ・刻をこえて』を聞く

 で、歌の話に戻りたい。今回はアニメ『機動戦士Zガンダム』の第一期OPである『Ζ・刻をこえて』を哲学的観点から解釈してみたいと思います。
 (というより、哲学を学ぶ者が聞くとどういう感触になるか、という感じでしょうか)
 

今は動けない それがさだめだけど
あきらめはしない もう目覚めたから
燃えるときめきは 時代を写し
色あざやかに 燃えさかる炎

Crying 今は見えなくとも
Searching 道しるべは浮かぶ
I wanna have a pure time (純粋な時間を過ごしたい)
Everyone's a noble mind (みんなが高貴な心を持っている)

step1 哲学の始まり 知れば知るほどアタマが沼る

 哲学を学ぼうというきっかけはいくつもありますが、
 私は”何らかの正しさ”へのこだわりから始まるとかな、と思っています。
 世間が間違っているとか、自分の正しさを理解してもらえないなどなど。

 そうして哲学を学ぶわけですが、学べば学ぶほど思うのが「〇〇は△△だ!」と断言するのことの難しさです。もっと言えば、日常のものから哲学者から、概念のカテゴライズそのものが非常に難しくなってくる。どれもどこに置いても「厳密に言うとしっくり来ないなぁ」という歯がゆさがある。
 (ここから歌詞の途中まで行くにあたり、)
 
 で、どうなるか?
 「今は動けない それがさだめだけど」となるわけです。
 しがらみ。社会的な均衡。自分の今の限界などを知る。そして二律背反な概念に埋もれて「これが現実か、、、」となるみたいな(笑)
 ただしそれでもと哲学を続けていると、どこかで自分なりにその現実を解釈できそうな”糸口”のようなものが感じられてくる。
 (私の今の糸口は、ムリヤリに一言でいえば文化進化論の哲学への応用です。ほかにも多文化主義を非相対主義化するために、ヘーゲル的弁証法・因果論の再解釈あたりも関係してきそうだとは思っている)

 それが「あきらめはしない もう目覚めたから」であり「Crying 今は見えなくともSearching 道しるべは浮かぶ」となる。
 (まあ実際にはその”糸口”が自分の思うゴールに続いているとも限らないわけだけれど)
 そういう状態のときは哲学にも熱が入る。答えがありそうな気配へ一直線である。夜中の2時とかに夢のなかでアイディアが沸いて勝手に目覚める。そして夜中に哲学論考をまとめたりしだす(笑)
 これが続く「燃えるときめきは 時代を写し 色あざやかに 燃えさかる炎」である。偉人に限らず誰の哲学・人生哲学にも、その哲学には必ず時代が映されている。国家や社会という大きな物語ももちろん、幼少期の過ごし方や家族の在り方なども含まれるだろう。(ただ個人的には精神分析的にそこに原因を見出して作品でなく”作者”に勝手な属性を付加するのは好みではないけれど)

step2 光の本覚思想に目覚める

 続く歌詞はこうだ。
「I wanna have a pure time (純粋な時間を過ごしたい)
Everyone's a noble mind (みんなが高貴な心を持っている)」


 哲学の道はおおむね二つある。光の道と暗闇の道。この二つだ。
 この歌詞の主人公は光の道を信じているものと思われる。
 「偉い! 凄い!」 なぜか?
 それは哲学を知れば知るほど。あるいは世界を知れば知るほど、人間の光と暗闇の両面が流れ込んでくるからだ。これに宗教を含めてもいい。

 例えばニーチェは「人間は神を信じたせいで弱くなりすぎた! 神様をぶっ殺せー」という感じで、どちらかというと暗闇属性寄り(笑) けれども、未来についてはいつか必ず超人が現れると思っている感もあるから、ダークファンタジーな世界観だけれど悠久の時間を超えてハッピーエンドがやってくるって感じだろうか。キルケゴールの「例外者」や、ヤスパースの「包括者」なんかもそういう意味では似ているかもしれない。
 どちらも大きな不幸や逆境があるが、最後は光がやってくるという感じ。(キルケゴールについては鬱エンドも解釈次第で「まあ、あれはあれで幸福という見方もあるか?」みたいな複雑な感じだが。イエスが処刑されるまで救いを信じていたことや、ソクラテスが毒杯を自ら飲んだこととも近いかもしれない)

キルケゴール(1813年)の「例外者」とは?
 一般的な倫理や社会規範を超越し、個人的な信仰や使命に従って生きる人物を指します。この概念は、アブラハムのように、神からの直接の命令に従い、世俗的な道徳を超えた行動をとる存在を象徴します。例外者は、自身の内面的な信念を絶対視し、他者とは異なる独自の道を歩む人物です。

ヤスパース(1883年)「包括者」とは?
 すべての存在を包み込み、超越する究極的な実在を指します。人間が直面する「限界状況」—死、苦悩、罪など避けられない状況—において、人間は自身の有限性を悟り、それを超える存在である「包括者」に気づくとされます。限界状況は人間が単なる存在を超えて自己の根源を問い直す契機となり、その中で包括者の存在が明らかになります。この包括者への気づきが、ヤスパースの哲学における超越の体験を可能にします。

 しかし、ヤスパースはともかく、この歌の主人公はニーチェやキルケゴールとは違うようだ。なにせ「Everyone's a noble mind (みんなが高貴な心を持っている)」と言うわけだから。

 これは仏教の「本覚思想」やヒンドゥー教の「梵我一如」と似た見方である。世界の在り方、人間の在り方の根本的なところに光を見るのである。

 (ただし、光に傾倒しすぎると光に目が眩み気付かないうちに闇の道を進む場合もある。例えば本覚思想は「わァ… つまり人間が最初から悟っているなら、みんな好き放題して良いってコト!?」ということにもなり得る。全肯定の怖いところだ、、、)

「本覚思想」とは?
 すべての衆生が本来仏性を持ち、悟りを得る可能性を内包しているとする考えです。修行や悟りの経験は、この本来的な仏性を顕在化させる過程とされます。本覚思想では、悟りは新たに得られるものではなく、既に備わっているものを自覚することが重要とされます。この思想は、特に日本の仏教において強調されました。

「梵我一如」とは?
 宇宙の根源であるブラフマン(梵)と、個々の自己であるアートマン(我)が本質的に一体であるというヒンドゥー哲学の教えです。この概念は、個人の真の自己が宇宙と一体であることを認識し、その一体性を悟ることで、解脱(モークシャ)に至ると説きます。梵我一如は、個と全体の区別が幻であることを示し、究極的な真理を探求するヒンドゥー哲学の中心思想です。



次回につづく


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