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スーパーの蟹コーナーで哲学と出会ってみる <蟹、性別、人の区別>


スーパーに行く。タラバガニがいる。

 スーパーの蟹コーナーに行ってみると、何種類かの蟹がいる。
 (スーパーでそんな高級品を買うかどうかは別にして)
 ズワイガニやタラバガニなんかの有名どころが目につく。

 だが皆さんはご存じだろうか、ズワイガニは”蟹”だが、タラバガニは”ヤシガニ”である。蟹ではない。 

Wikipedia タラバガニ


本種はカニではなく、ヤドカリの仲間である(生物分類学上はカニ下目ではなくヤドカリ下目に分類される)[1][2]。ただし、見かけはカニによく似ている。カニの脚は10本だが、タラバガニでは目立つ脚は8本という違いがある(ただし実際には10本ある。後述)。

水産業・貿易統計等の分野ではカニの一種として取り扱われ[3][2]、重要な水産資源の一種に位置づけられている[2][1]

ウィキペディア タラバガニの項目より

「〇〇は△△だ」は時、場合、分野=TPOによる。

 先ほどの話で気付いてほしい点が4点ある。
 ①タラバガニは学術上は”蟹”ではない
 ②スーパーでは”蟹”扱い
 ③農林水産省の公的な統計でも”蟹”扱い
 ④Wikipediaでは”ヤシガニ”扱い

 特に③と④を踏まえてほしい。
 これらはテキトーな見解の差によって、分類が違っているワケではない。
 合理的な一貫性ある基準があって分類が違っている。
 前者は食品としての消費者や市場の扱いではタラバガニは蟹として扱われているからであり、そういう姿としてのタラバガニの実像を知るための統計だから自然である。後者はベースとしてはWikipediaは学術的な分類をしつつつも、百科事典らしくタラバガニの知識全般として蟹扱いにも触れるから自然である。

 さてしかし、タラバガニが学術的にはヤシガニであったとて
 スーパーでタラバガニが蟹扱いされていたり、レストランのカニ食べ放題コースで出てくる蟹がタラバガニだったとして「タラバガニは蟹ではないから”優良誤認”だ!」というクレームはふつうは通らないと思われる。
 (しかし、アブラガニという似たものをタラバガニとして売っていることは以前に問題になったこともある、ということも添えておく。いったい何が違うと思われるだろうか?)

 私たちはこれらの対応の違いを、ことさら高度なことだとは思わないだろう。だが高度とは思わない人も、またあるいはそのロジックを言語化できない人も、それに違和感を覚えない時点で実際には非常に高度な判断を脳内で下しているのである。ワタシはそれは人間としての素晴らしい能力だと思う。

 ここから蝶と蛾の区別の話や、性別の話、また人間の定義の話も簡単してていきたいんですが、すべてを通して言いたいことは、
 「たとえば”学術的な区別”は”学術的なTPO”のケースだけにしておかないか?」という話であり。加えて、これは他の”〇〇的な区別”をしようする全ての話に出来るかぎりのベースとして置いておくべきじゃないか? という話です。

日本語の蝶と蛾 フランス語のパピヨン(papillon)

 日本語では蝶と蛾を似て非なるものとして扱います。慣用句として使われる場合でも「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と「蛾の火に赴くが如し」では、前提とされているイメージ自体が違います。

 対してフランス語では蝶も蛾もパピヨン。強いて呼び分ける場合でも蛾のことをパピヨン・ドゥ・ヌイ 夜の蝶 (papillon de nuit)と呼びますから、固有名詞は与えられていません。
 しかし、固有名詞がないとは言え、彼らにも呼び分けたい時(つまりなんらかの実用上の区別をつける必要がある時)には、ちゃんと区別する方法があるわけです。日本人で言えば、猫は何色でも猫ですが、特に黒い猫を表したいときは「黒猫」という名詞を使うようなものでしょうか。

言葉に合わせて区別はしない、区別に合わせるために言葉を用意する

 哲学においても、科学においても、また実際の社会生活においても忘れてはいけないなと思うのは、先に”言葉ありき”で考えるのは本質的なことを間違えそうだという感覚です。

 たとえば今の社会では性が多様化してきている、と言われます。ただ、生物学的に性別が多様化してきているとは普通は言わないでしょう。それはLGBTQ+αという概念が生まれる前から、無性生物は無数にいるし、性別を環境に合わせて途中で変えるカクレクマノミのような魚もいるからです。
 生物の性はもともと”多様”です。(まあ、性別になんらかの時系列的、系譜的な順番を付ける以外のイデオロギー的な差をつけだすと話が変わるでしょうけれど)もちろん人間においても、肉体的に両性具有で生まれる人もいれば、精神的に両性具有として生まれる人も昔から存在したでしょう。
 問題はこういうケースを単なる”少数”パターンと見るのか、”例外”や”異常”と捉えるかですが、純粋に科学的に探求するうえで、これらが普通か異常かという価値判断は必ずしも必要ではないハズ。

 さて、しかしこれらの”少数”の事例に必ず”男”か”女”かのラベルを貼らないといけないかというと違うでしょう。それらの研究として正しく扱うためになにかラベルを貼りたいなら、研究したい内容に合わせて貼るだけでいい。
 これは単純に既存の言葉で振り分けろという話ではありません。つまりフランス語で蝶と蛾をもっと区別したいと思うなら、そのための言葉を用意して区別すればいいし。スーパーでタラバガニをヤシガニとして扱いたいなら、ヤシガニコーナーを作ればいいという話です。

 イデオロギーと哲学はできるだけ分離する

ワタシはこの話を男女平等とか、LGBTQ+αの権利保護のために話しているわけではありません。純粋に哲学的な見方として「もっとうまく”言葉”を使っていけないだろうか?」という話をしたいだけです。
 例えば女性自認の人を社会的に女性として呼び扱うかという話と、その人が女性用の公衆浴場に入れるようにするかは、本質的に別の問題だということです。またこの考え方にリベラルや保守という区別も必須ではないと思います。

 どういうことか?
 具体例で言えば、令和4年10月1日から温泉やスーパー銭湯などの公衆浴場の混浴制限年齢が「10歳以上」から「7歳以上」に引き下げされました。
 しかし変更前にしても変更後にしても、子供の性別が、つまり彼らの個人的な性自認や、生物学的な男女が変わったわけではありません。そもそも、最初の年齢制限の時点で子供たちの社会的権利には変更が加えられていましたし、またそれを受け入れる側の大人に権利についても同様でしょう。
 
この状態の説明に「男の子or女の子だから入れないんだよー」と言うのは日常的な会話としてはTPO的に見ても十分ですが、哲学的あるいは社会的なTPOとしては相応しくありません。

 (ただし、こういったイデオロギーや願望や、目的達成のツールとしての側面を押しだした哲学or思想でなくとも、誰しもが何らかの論理化できない願望のようなものが根底にあることも忘れてはいけないとも思います。リチャード・ローティが『偶然性・アイロニー・連帯』で述べた”ファイナル・ボキャブラリー”のようなものが、誰にもでもあるってことですね)
 (ファイナル・ボキャブラリーとは、個人がその人生の中で使用し、自分自身や世界を説明するために用いる、最も基本的で最終的な言葉や概念の集)

蟹、蝶、人<区別という哲学の深淵>

 きっとこういった差を考えていくと、人にある差にも行き着くことになると思います。実際、AIの発展で人の定義についても盛んに話題になっている気がしますね。AIの開発畑のエンジニアの人は、ワタシが見聞きした限りでは「AIは人になれない、少なくとも人ではない」という考えが主流のように思う。
 だがしかし、今回のタラバガニやパピヨンの例を踏まえるなら、もはやそれだけでは全てのエリアでの区別に根本的な決定打は与えられないかも知れない。(もしかしたら、この例に限らず根本的な決定打なるものは存在しないかもしれないし、そもそも決定打なるものは変わっていくものかもしれないが)

 なんにしても、区別や境界線というのは哲学の深淵をよく表した概念だと思います。哲学をするうえで、そういう目線でモノを見るのは大事だと思います。スーパーの蟹にしても、単語の意味や使い方にしても、社会的なムーブメントにしても。一人の人間である以上、偏見にも既成概念にも捕らわれるし、ローティ的なファイナル・ボキャブラリーが捨てられない(が、捨てる必要もない)のであれば、せめて自分がそういった存在であるということに自覚的に考えていきたいと思います。

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