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差別できる力だけが差別をなくせる

 差別のできない人は、物事を分別する理性が無い人なのかもしれないと思うことがあります。


差別と区別が分別できないパラドックス

 もちろん、これは私が差別を肯定しているわけではない。
 差別は良くない。

 しかしゼロにはできないし、無理にゼロにしようとしないほうが良い。

 なぜなら、差別をゼロにするということは、人から差別の心がなくなったのではなく「こいつ差別しているぞ!」とそれっぽい人をすべて排除することを意味し、かつその排除を差別的なものではないと社会的に言い張っているにすぎないからです。これこそまさに差別であって、差別しているように見える人を差別しているわけです。

 このパラドックス(矛盾)は、ちかごろ流行りの多様性や、それが流行るずっと前からある問題にも見出せる。

 たとえば多様性は個性を認めるということだが、何かの個性が「こいつとは一緒にいれない!」と別の個性を拒否する場合、それを完全に認めることは論理的に不可能となる。 

 たとえば、「エッチな絵は18歳未満には見れないようにしろ!」という個性がある(実際今はその考え方が規定路線ではある)、もっと進むと「性的な表現に対して、その表現を見ないで済む権利がある」というような考え方もある。これらと表現の自由はお互いに完全な両立はできない。

 ではどうやって差別が差別する力で無くせるか(厳密には被害を低減し、利害を調整できるかということ)というと、それはさっきのエッチな絵の話の場合で言うと「でも保険の教科書には男女のあられもない姿の無修正の絵があるじゃないか?」という話がちょうどいい。

 単に事実だけを見て、その保険の教科書の絵と、えっちな本の絵を区別できるから、ではない。実は本質的にこの二つは区別不可能だ。

 何がどこまで見えているかとかそんな話をしてもいいが、もっと簡単に言って単純に保険の教科書のイラストについてGoogle検索をしてみると良い。「保険の教科書エロすぎぃ!」と沸き立っている人たちは結構いる(笑)

 つまり、そもそも人間はどんな絵でもエロく見ようと思えばエロく見れるということだ。

 もっと言えばこれは、明らかにエロい要素があるものに限らない。以前にTVで自転車のサドルに興奮する性癖の人が出ていたこともあった(もっともその人は他人自転車のサドルで興奮するということで、窃盗で逮捕されていたが)

 なぜ本質的に区別不可能なのだろうか?
 しかし実際の社会においては、ある程度はそれを区別することが可能になっているようにも見える。?
 でも、それが差別能力につながりながらも、その能力があるからこそ差別を無くせるとは一体?


赤色と黄色は区別は不可能? 相対主義に行き着く

あなたは「赤色」と「黄色」を見分けられますか?


Wikipedia 色相環

 なんとなく「ここから、ここまでの間かなー」というような見分けは出来ると思いますが、それはあなたの主観的なものではなく、客観的な事実だと言えますか? 言えないと思います。

 これは差別の話に戻ると、「ここまでは区別、ここからは差別」と明確に客観的な事実として主張することはできないということです。

 もちろん測定器の色温度で決めるような科学的な手もあるかもしれません。国際照明委員会 (CIE) は700 nmの波長を赤色と定義しています。これは確かに客観的です。

 その場合でも、下のような状態なら見分けるのは簡単ですが、

次のような状態になると、どうでしょうか?

 これでもまだ区別できるでしょうか?
 ちなみに真ん中はオレンジ色では作ったわけではありません。
 透明度の下がった黄色と赤色が重なっているだけです。
 別に混ざってもいません、この二つはデータ上はまったく完全に区別されていますが、実際には混ざって、存在しないオレンジ色になっています。

  これが仮に区別できるとして、そもそも国際照明委員会 (CIE)が分裂して片方が赤色は700mmではなく699 nmです、とか言いはじめたらどうしたらいいでしょうか?

 つまり、”これだけ”が赤色だという科学的な、あるいは客観的な事実があるでしょうか?
 いいえ、ありません。


 他にも、またもっと実際に形あるもの、例えば


これなんかどうですか?

これはナイフですか? のこぎりですか? ハサミですか?

結局なにが言いたいか?
「”あれ”と”これ”という本質な区別など不可能」だということです。

 これは差別でこれは差別でないと、なんらかの”客観的事実”として差別を定義することは不可能だということを言いたいのです。

 これが差別についての結論だとするなら。私たちの価値観はすべて主観的でしかなく、思い込みや妄想と同じようなレベルの普遍性しか持たないことになります。

 これは哲学的に言えば「相対主義」に閉じ込められることと言えます。

相対主義 みんな違って みんな良い or みんな無価値 にある大嘘 

相対主義とは何か?

「絶対的な真理はありえない。どのような立場もそれなりに正しい」と主張する立場。

日本大百科全書(ニッポニカ)

<物ごとが真であるかどうかは、相対的なものであって、個人、集団(たとえば、民族、社会、家族、など)、時代によって違ってくる>という考え方。

新版哲学・論理用語辞典

 しかし、実はこれは絶対主義(普遍的な真理がある)という考えよりも遥かにペテン的な考えでもあります。なぜなら、この相対主義に則るなら何かを決める、行動するには、たった一つの方法しかありません……

 「正しくなくても何をしてもいい」  全ては自己中心的な考えなのだから、みんな好きなようにしたらいい。

 これしかありません。

 ですが、そもそも誰もが好きなようにするのであれば、その相手に何かを主張することは相手の好きなようにする行為を阻む行為であり、考え方の自己否定であり、論理的矛盾をおこすはずです。(論理的に矛盾しててもいいとまで言うこともできますが、この場では意見として挙げる必要はなくなりますね)


だからこそ目的を再定義する

 ここで一番最初のテーマに帰ってきます。

 実際の社会においては、ある程度は区別することが可能になっている。
 しかし、それが差別能力につながりながらも、その能力があるからこそ差別を無くせるとは一体?

それは人には二つの能力があるからです。

  1. 目的”に”相応しいかを判断する能力

  2. 目的”が”相応しいかを判断する能力

色の例でいうなら色とは本質的に区別不可能なのだ、とはいうものの、
実際には私たちは、赤信号と青信号を区別できます。

なぜか?


さきほどの画像です。
紛らわしい中間の部分がないので、区別は簡単でした。

つまりそういうことです。

 最初から”目的に応じて”デザインをすることで、区別可能な存在にするわけです。色の本質的な区別ができなくとも、信号機の色を見分けられるようにデザインするのです。エッチな絵であれば、エッチな絵の目的は、人をエッチな気持ちにさせることが目的です。魅力的なポーズ、性的なムードなどなど、目的のための仕掛けを施す。保健教育の絵は教育が目的ですから、解剖学的な目線で書いたり、記号的な要素に変換したりする。

 これが人間の「目的”に”相応しいかを判断する能力」です。
 本質的に区別ができなかったとしても、”らしさ”などで優先順位をつけたり、それが感じられるように存在しない境界線を作ることができる。

これなんかいい例でしょう。


食器乾燥機です。

食器乾燥機、のはずなのですが、、、
レビューにつけられている写真で食器を乾かしている人は、一人もいません(笑)
みんなプラモデルを乾燥させています。
この方たちにとって、これは食器乾燥機でなく、プラモデル乾燥機です(笑)

 ただ、実際の物なら物のほうをデザインしたり、その扱いを変えることはあまり問題なくできますが、差別の場合は、差別される側もする側も人間ですからそれはできない。
 なので制度のほうを「目的”に”相応しいかを判断する能力」でデザインする。

 ただし、それだけではすぐに壁にぶつかります。
 多様性は、時にいくつも同時には並び立てないからです。

 そこで今度は「目的”が”相応しいかを判断する能力」を使うのです。

 無思慮な多様性には論理的な限界があるわけだから、私たちはなぜ多様性を大切にするのかを問いなおす必要もあるかもしれません。

 基本的人権を大事にするのが目的なら、コミニュニティの基本的人権を守るために、発展的権利は多少阻害されても根幹の基本的な人権を守るという目的を持つのもいいかもしれません。

「目的”に”相応しいかを判断する能力」
「目的”が”相応しいかを判断する能力」

 ただしこの二つは差別の源であるのも忘れてはいけない。
 本質的に区別できないもの、例えば日本人と外国人などのものを、何らかの目的のある基準を使って便宜上区別することが”出来る” のです。

 多くの差別は、なんらかの目的に則って行われています。重要なのは差別しているように見える人が、本当はどのような目的を持っているかを見極めることです。

 またこれは自分自身でもそうです。

 お互いに、お題目として目的を並べたててはいるが、実際には全然違う目的のために行動してはいないか? なども含めて、お互いに目的を考える。

 つまり真の折り合いがつかない部分を探す。何を差別とし何を差別としないか。あるいは何なら許容範囲外の差別で、何なら許容範囲内の差別かを明らかにしようとして、そしてに何よりもその目的を明らかにしようとして、それで初めて建設的なコミニケーションができるはずなのです。

 それが私たちには出来るはずだと思っています。
 なぜなら、そもそも差別できるということは、

「目的”に”相応しいかを判断する能力」
「目的”が”相応しいかを判断する能力」

 これらを持っているはずですから、相手の目的を理解したり自分の目的を再定義することで、人を区別する基準そのものに対してそれを働かせることも可能なはずです。
 同じ差別に見える二つの差別であっても、そこには違いを見出せるはずですし。同じ区別に見える二つの区別であっても、そこには違いを見出せるはずなのではないか、と思います。


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