真の大人、真の思慮深さとは?
1、大人とは? 一般的な定義は?
大人になるってどういうことなのでしょうか?
年齢?
自分でお金を稼ぐこと?
一人で生活できたら? などなど。
いろいろ考えられるかと思います。
参考の例として、ウィキペディアと法務省のHPを引用します。
ざっくりと何らかの精神的な素養があることを「思慮分別」がある人が大人であり、それが無い人を子供と呼ぶような感じです。法務省はそういった「思慮分別」を持ったと想定されるラインである成年(18歳)になったら、それを前提に親の意思とは関係なく、自分でいろいろなことを決められる=責任を持たないといけないという感じです。
図にするとこんな感じです。
2、重要なのは年齢?思慮深さ?(明治29年に遡る)
結論を言えば「思慮深さ」のほうが重要でしょう。
年齢での成年の基準も、普通に考えれば「この年齢なら思慮深さがあるだろう」というような前提になっていると言えます。
しかし念のため、法律上の話も少しだけ確認しておきましょう。
明治29年に制定され今にも続く法律には「第三条 満二十年ヲ以テ成年トス」と書いてあります。これは平成16年に現代語化され「第四条 年齢二十歳をもって,成年とする 」と今は読みやすくなっています。
上記の法律の直接の草案ではありませんが、当時に並行して作られた草案にはこうあります。
130年も昔でも、今の一般的な感覚と大した違いはないと言っていいでしょう。
今回は厳密に法律上の大人が何故こう決まったかを考えたいわけではないので、法律についてはこの程度にします。
つまり、やっぱり年齢という基準は「思慮深さ」を測る目安とに過ぎないということです。ということは、そもそも「思慮深さ」とは何かということになります。
3、思慮深さが重要 でもそもそも思慮深さとは一体何?
思慮深さが一体何か? と考えるのはとても大変そうです。
あまりに個人差が大きそうですからね。
ただ、ここまでのなんとなくのイメージとしては、思慮深さには「自分のことを自分で考えて、自分で出来る」というような一種の「自己完結性」的な原理があるのは間違いない気がします。
例:自分で自分の生活費を稼げるとか、自分で自分の責任を取れるとか。自分で自分の人生のことを正しく決められる などなど
他にも切り口はありそうですが、今回の記事では「自己完結性」に絞って話をしようと思います。しかし、この「自己完結性」という原理は突き詰めると致命的な欠点があるように思います。この場合の自己完結性というのは、自分で自分の衣食住の費用を稼ぐとか、怪我したら自分で病院に行けるとかもそうですし。あとは自分の将来のことを自分で決められるとかも入るでしょう。他にも、自分の感情を自分で処理して、自分の機嫌は自分で取るなんかも入るでしょう。
4、思慮深い人=自己完結な大人で良いのか?
ただ、この自己完結性を完全に実現している人がいるでしょうか?
専業 主夫/主婦の人は、自分一人で人生が自己完結しているとは言えないでしょう。
身体的障碍や知的障碍を持っている人も、人生が自己完結しているとは言えないかもしれません。仕事が終わって家に帰ってきたら子供じみた性格になる人もいれば、嫌なことがあると誰にでも感情的になる人もいると思います。
ただ、これらが“少し”そういうところもあるというだけで、
つまり「自己完結性」が完全ではないというだけで、大人ではないと言っていいのでしょうか? その場合大人と言えるひとは実際には見つけられない気がします。これが突き詰めると浮かび上がる欠点です。
5、“在るか無いか”という“イチかゼロ”ではない。
ということは、欠点が“在るか無い”かという“イチかゼロ”という話にはできないことになります。であるならば量ではなく質の問題として、これらの欠点の側面はどれも大人らしさに関係しつつもその側面が受け入れられているかという点こそが問題なのではないでしょうか?
もちろん、たまたま今上手いっているだけで「こういう人は本当は大人ではない」と感じる人、「ただ誰かに大切にされて上手くいっているだけのような人」は本当は大人ではない、という感じもします。しかしそう言うためには、そのような場合と、以下のような場合との違いを考える必要があると思います。
例えば、お互いに共働きで生計では互いに自立的だけどしっかりと愛し合っていて、何かの拍子に片方が死ぬとひどく精神的/肉体的な体調を崩してボロボロになるような夫婦もいるでしょう。プロスポーツ選手で仕事が圧倒的に一番の生き甲斐だという人も、怪我で選手生命が断たれたらどうしようもなくなる人もいるでしょう。
つまり“欠け得る”ものが欠けたらダメになる人というだけで、大人ではないのなら、先ほどと同じく自己完結性は完全には得られないという欠点がまた現れます。
6、では大人はみな完全な自己完結ができない“子供”なのか?
これはNOだと思います。先ほどの愛し合っている夫婦とか、スポーツに人生を懸けている人などの、失われたら生きていく道に迷うほどの何か大切なものがあるというのは、むしろ正しい大人の姿なような気がします。
つまり、自己完結そのものが目的になってしまっていて、誰にも何も少しも寄りかかれない人は臆病な子供のよう人であって、大人とは言い難いのではないか? ということです。
ではそういう大切な物の為に生きている人と、誰かに大切にされて上手くいっているだけの人をどう区別できるでしょうか?
いや「もう今あなたが言ったことが答えだよ」と考えるひともいるかも知れません。
大切なものの為に生きている人が大人で、誰かに大切にされて上手くいっているだけの人は成人した子供だという区別です。ですが一人の人間が何か一つの事の為に生きるには、たくさんの人のバックアップが必要なように思います。そして、誰からも大切にされなかったら上手くいかない場合も当然あるでしょう。
7、思慮深くないといけない点を質的に考える。
ならば目を向けるべきは、そういった誰かに支えてもらっているという状況に自覚的かどうか? ではないでしょうか? 愛し合う夫婦同士の関係であれ、スポーツとスポーツ選手とそれを支える周りの人の関係であれ、それが自分一人で成り立っているわけではない。自己完結していないということに自覚的かどうかは、大きな差ではないでしょうか? 専業 主夫/主婦の人や身体的/知的障碍を持っている人も、その状況に自覚的である限りは大人と言って良いのではないでしょうか?(身体的/知的障碍の人の場合、確認できない場合はありそうですが……)
他にも例えば、年齢的には成年でなくとも、自分がまだ未熟であることを理解していたり一人では生活もままならないことを理解している子供ならば、一部のただ年齢だけが大人になってしまった人よりもよっぽどそういう子供のほうが大人だと言う場合もあるのではないでしょうか?
8、真の大人、真の思慮深さとは?
つまり、結論としては大人というのは、自分で生計を立てているとか、自分の感情を自分でコントロールできるなどといった「自己完結性」と関係ないわけではないものの、本当の大人とは、その「自己完結性」が自分にどれぐらい備わっているかを理解すること。つまり自分には何が出来て、何が出来なくて、誰がどう自分を支えてくれているかということを理解しつつ、自分が大切にしたい物を大切にできるように一生懸命な人ではないでしょうか? それこそが真の大人であり、真の思慮深さがある人ではないでしょうか?
これはつまり、例えば年齢的に子供であっても親に育ててもらうのは仕方ないとしても大人らしく生きることを目指すことはできることを意味しますし、またなんらかの事情でいろいろな人に強く頼らないと生きていけない人で負い目を感じているような場合も、ただ誰かに助けてもらっているというだけで惨めと思う必要はないという意味でもあります。
しかし逆に、どれだけお金を稼いでいても、誰かに大切にされて上手くいっているとしても、それを理解できていない人はとても大人ではないということになるでしょう。
であるならば、どうせ生きるのであれば、自分が誰にどういう風に助けてもらって生きているかを大事にしながら生きるべきだろうなと、そう生きたいなと、私はそう思います。
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