神殺し。科学は必ず哲学に助けられる
自らを真理として自己完結できない科学
この社会おける科学の役割とはいったい何だろうか?
表現の仕方はたくさんあれど、
おおむね何かしらの行為を助ける物であるとか、何かしらの未知を確定する物であるとか、そのような答えとなるかと思われる。
ただし、例えば科学が何かを助けるためには、実は科学自身は”哲学”(あるいはそれに代わる何か)の助けが必須だと言ったら不思議だろうか?
あるいは、科学はいかなる未知も確定できない(真理と証明できない)と言ったら?
これは与太話ではありません
蓋然性とは、確からしさや確率のような意味で。この場合、真である=つまり真理である確率や確からしさが相対的に高いとすら言えない、とリー・マッキンタイアは述べています。
科学は自己を、科学的方法で真理だと正当化することができないのです。
なぜ正当化できないか? その話題にたどり着くためには、ひとつ寄り道が必要です。
科学者の脳筋な検証方法
まず科学は何かが「真理」かどうか、どのように確かめるかの”検証方法”を知る必要があります。科学というのは実にマナーが悪く(別に哲学がマナーが良いとは言いません) あたりに目につく正しそうな人々をとにかく殴りまくって、死ななければ真理の人だったと述べて、死んだら「俺は悪くない、死んだ奴が間違っていたのだ」と言う脳筋学問なのです。
つまり、真理とは科学的にも論理的にも絶対に無矛盾なはずなので、それならば徹底的に細部まで検証しても真理なままのハズだ、ということです。
そして、その検証とは具体的にどういうことか、いったい過去にどのような概念をどのように壊したか=正当化はできないと結論付けたかを知る必要があります。
神の存在証明書を検証した科学者
もっとも分かりやすいのは、日本人にとっては非科学的な概念の筆頭といえる「唯一神の天地創造論」を否定した方法でしょう。信心深い人なら科学者を罪深いと思う人もいるかもしれませんが、許してあげるべきでしょう。後から述べますが、なぜなら神を殺したその”科学的手法”という槍は勢い余って、科学自身の真理性という心臓をぶち抜いてしまうのですから。
有力な二つの神の存在証明書
さて、この「唯一神の存在証明書」はカント曰く四つに分けられますが、今回は特に説得力のある二つを挙げます。
目的論的証明(自然神学的証明)
世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を作ったからだ
因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと根因があるはず。この根因こそが神だ。
この二つです。
今回のテーマで重要なのは2です。この証明方法にも使われている因果論というものは、科学でも基本的な考えのひとつに挙げられます。原因があって初めて結果があると考えるわけですね。ですから、これがもっとも説得力がある(少なくとも科学目線では) そしてまた1についても、実はその主張の核は2に合流します。世界の規則的かつ精巧さという”結果”には目的意識が透けて見える。そこには目的を持った必然的な意思を持つ神がある=創造の原因がある、という意味で因果論に収束します。
強力な因果論と、その弱点
この因果論をどのように否定したかは、説明するだけならそんなに難しくありません。この因果論的な証明のロジックは簡潔で明快です。
前提1:全ての物事には始まりがある
前提2:つまり、宇宙にも始まりがある
前提3:その遡及が無限なのはありえない(原因なくして結果なし。因果論の原則)
結論:よって宇宙には最初の始点が存在する=それが神だ
これがおおまかな因果論的な証明方法です。
宇宙論的証明という名前は、このロジックから取られているわけです。これは神の存在を強力に擁護する論理です。しかも困ったことに先ほど述べたとおり、この因果論は科学を支える論理でもありました。リンゴはなぜ地面に落ちるのか、それは引力という原因となる現象があり、その現象の原因となるメカニズムをニュートン力学が示しているのだ、とそういう方法論で正当化する一面があるわけですからね。よって因果論を否定すると、科学も共倒れになるかもしれません。
では科学は代わりにどこに注目するか? それは前提1と結論が、実は矛盾しているんじゃないか? と、目線を変えるのです。
因果論に神を組み込むと生まれる矛盾
この証明方法は前提として、”全ての物事には始まりがある”という1の部分が必須です。真の意味で始まりがない現象もあるとしたら、それは神がすべてを作ったとは言えなくなりますからね。しかし、その前提を置くと、結論の”それが神だ”が、成立しなくなることはお分かり頂けるでしょうか? 前提1に”全てのもの”という例外のない前提を置いたわけですから、論理的には当然それは神そのものも例外ではありません。(だから神は特別なんだと言うことはできますが、そうなると論理的な証明を求める必要も、その実現可能性も無くなりますね)
ということで、この証明に使われた三つの前提は、それを合わせると結論が導き出せません。
つまるところ、この宇宙の因果論的な神の存在証明は「すべてには原因がある。よってその原因が神だ。むむむ、では神が生まれる原因とは一体?」と疑問が無限ループし始める欠陥のある証明だったのです。
ここで大事なのは、この欠陥の指摘による神殺しは、厳密に言うと神殺しではありません。科学は厳密には、神の存在を否定したのではなく、神が存在するという”証明書を否定”したのです。
これは例えば心霊写真について、科学的検証の結果、それは偽物だったと判明したようなものです。ですが、本当にその心霊写真が偽物だったとて、だからこの世界に霊は存在しない、という”不在証明”までは飛躍できないのはお分かりいただけると思います。なにかが存在しないということを証明するのは、いわゆる悪魔の証明、あるいは消極的事実の証明などと呼ばれる鬼門ですから、そこまで科学に要求するのは酷だろうと。よって、”少なくとも神の存在を肯定できる証明は、いまだない”という結論に至り、それで満足するわけです。
さて、ここで本題に帰ってきます。
なぜ「科学はいかなる未知も確定できない(真理と証明できない)」のか?
(むろん、私は科学の相対的妥当性について否定するわけではありません。念のため)
非常にシンプルに言うと、科学的証明といわれる類のものは、すべて実際には証明足りえていないということだ。アインシュタインの言葉を引用しよう。
彼の述べる「すべての理論はいつか『間違っている』を経験する」とはどういうことか。科学は何事においても厳密でなければいけない。それは何よりも”科学それ自身”に向けられる視線です。となれば何かを真理だと言うからには、しかもそれが「これは(今のところもっとも)真理(に近いと思っている)」というような補足もせずに真理と言いたいなら、科学は以下の条件を満たさなければならない。
その科学の理論が完全に正しいという保証が、過去・今・未来においてなんらかの形で存在すること。
科学が科学自身に要求するこの条件には、ダイソンの掃除機かブラックホールと同じくらいの吸引力の落とし穴がひとつある。むろんアインシュタインが述べるように、いつか「間違っている」を経験するような理論は、到底この条件は満たせない。そしてアインシュタインは、”すべての理論”はいつか”それ”を経験するというわけだから、真理だと証明できる理論など一つもないことになる。
次回「科学者、死す」へ続きます。落とし穴の詳細はそちらで。
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