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絶望と希望の狭間にあるもの〜RIC・ウツ編#8

鬱の薬のせいか、疲れのせいか。

自分は変になってしまったのではないかと思うことをたくさん経験した。

昼も夜も、耳元でいないはずの男性が話しかけてくる声がする。

寝ているのか起きているのかわからない、意識が体を離れていく。

鏡を覗くと、「お前は誰だ?」と何者かに尋ねられる。

不気味で、恐ろしい経験ばかりだった。

私は、大丈夫なんだろうか。

どこか二度と戻ってこられない境界線の向こうへ行ってしまうような気がした。

あまりの恐怖で、当時まだ学生だった長男の寝ている枕元に座り込むこともあった。

戦場の兵士のように、生か死かというレベルで神経が張り詰めていた。

******

恐怖の感情が極限まで行ったような時期が続いたと思ったら、今度はすべてを思い通りにできると思い込む全能感が私を支配した。

恐怖と全能感、この二つは表裏一体の関係にあるのかもしれない。

錯覚した全能感は抑圧していた未熟な自分を引き出す。

ある日、鏡を覗いたとき「お前は神だ」と声がした。

全能感が身体に満ちてなんでもできるような気分。

それは、震えるような歓喜だった。

何も怖くない。

虚勢を張って、でかい案件を受注したこともある。

そして、たくさんの人が辞めた。

このままでいいのかと思える自分がいた。

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この体験を契機に変わっていったように思う。

恐怖の闇は死のエネルギーを、すべてを照らすような全能感は生のエネルギーを表している。どちらが裏で、どちらが表かではなく、裏だと思っていたら表だったりする。メビウスの輪のように。クラインの壺のように。

そのことに気づいて、未熟な自分を俯瞰して見れるようになり、客観的な意識が成長したのだろう。常に死を想い生を感じて味わえるようにもなった。

闇から光、絶望から希望は生と死のギリギリのところから開かれる。

深い闇と光に満ちたところ、絶望と希望は隣り合っている。その狭間には生と死の境界みたいな状態がある。

異なる世界を感じることは恐怖だが、それは新しい扉が開かれようとしている時。

どんな状態、状況でも生は充実しているのだ。


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