内なる情熱で現実を歪めない〜RIC・ウツ編#12
お休みの日、ひとりでよく美術館に行った。
そこであれこれと展示を眺めては、感じたことを書き留めるのが常だった。
その日は、百貨店「ジェイアール京都伊勢丹」の7階に隣接する駅美術館を訪ねていた。
ちょうど仏教関係の展示をしているタイミングだった。
ひときわ目を引いたのは、行者像だった。
険しい顔のその仏像はこう告げてきた気がした。
「黙れ。やることはやったのか? で、どうだったんだ?」
私は我が身を振り返った。
自分のしたことの結果を真摯に受け止めただろうか。
今目指しているそれは、本当に望んでいるものなのか。
嘘偽りはないか。誤魔化していないか。現実とずれていないか。
思いや情熱だけが先行していないか。
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今思うと、あの頃までの私は
情熱が先走って「絶対こうする」を譲れなかったり、
「こうあるべき」「こうならないとおかしい」と
現実を歪めて見ていたりしていたように思います。
行者像の一件は、結果を素直に見て自分を律し、行動を変えるきっかけになりました。
自分の解釈がまちがっていたんじゃないか。
違うように考えたらどうなるんだろう。
そんなことを思えるようになったのです。
結果、内なる情熱と現実が1つに統合され、新たに事業を創造できました。
どのような事業を、どのようなやり方で進めていくかが見えたのです。
気分も上向き、それに合わせるように事業も伸びていきました。
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情熱は、時に人を盲目にします。
絶対こうするのがいい、こうしたんだからこうなるべきだ。
そんな思い込みが、目の前の現実を受け取れなくすることがあります。
それは10代の激しい恋のように、周りを傷つけ、自分を傷つける。
それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。 村上春樹『スプートニクの恋人』
強すぎる情熱には、孤独と絶望と郷愁がつきものです。
私は、
哲学者のように自分の内なる真理を探求すると同時に、
科学者のように外側にある現実にもすなおに向き合いたい。
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