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「私のため」と「みんなのため」の間で〜RIC・ウツ編#5

我が家の庭に、ひとつの池がある。

一階の外に面した廊下から見えるその池が、当時の私には恐ろしかった。

数十年前、鬱を患っていたときのことだ。

あの頃は、研ぎ澄まされた感覚とぼんやりした意識の中にいて、すぐに暗いイメージが頭の中に広がり、現実との区別が曖昧になることもあった。

夜、薄明かりの中で廊下から池を眺めては、その底に沈む自分を感じた。

暗い池の底に、仰向けに横たわる私を。

頭から手足の指先まで凍っているような、冷たい感覚を感じた。

何も聞こえず、何も見えない。漆黒の闇。

究極の孤独。

私の心は周りの人には理解されなかった。

金銭欲に突き動かされる非情な人間のように思う人もあったかもしれない。

会社のため、その一点に力を注ぐことで精一杯だった。

私自身、私をどこかに置き去りにしているような感覚があった。

✳︎✳︎✳︎

冒頭のような時期は、私の歴史の中でどんよりとしていて、この頃は救いのない日々を送っていました。

あの頃の私は、会社という組織の目的に固執して生きており、個人としての自分の心を無視し続けていました。

強い自分として振る舞おうとする余り、自分の悲しみや痛みを人に共有することができていませんでしたし、文化に触れ感動する時間を作ることも少なかった。

それが抜け出せない鬱々と続く日々を長引かせたのだと思います。

今思うことですが、人は何か大きなもののためだけに生きることはできないのでしょう。大きなものの中では、自分は単なる部分のひとつに過ぎないからです。

私たちには、顔の見える身近な誰かからの、他ならぬ自分に向けられた「あなたが必要だ」というサインが必要だし、他ならぬ自分だけが抱く固有の感情を味わうことが必要なのかもしれません。

ということは、自分のためだけに、自分だけで生きることもできないのでしょう。

自分しか存在しない世界には積極的な意味が乏しく、生きる意義が与えられないからです。

私たちは絶えず、この「私」と「みんな」という両者の間を揺れ動いていて、落ち込んだり、希望を見て前進したりするのです。


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