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自分で自分を自分にする

暗い話をしたい。

が、暗い話ほど「おもしろさ」を入れたい。

単調に、ゆっくりと、声を潜めてからの「わっ」みたいな、人を怖がらせる話ではなく、内容は暗いのだけど雰囲気は明るいみたいな。

だけどそれを書くには、僕自身が明るくなくてはならない。

にこやかに話せば周りが明るくなるように、語り手の心情が聞き手にも伝わっていく。


あなたに僕がどう見えているのかはわからないが、僕は僕を暗い人だと思っている。

基本的にネガティブであり、最悪をイメージしながら事に当たる。

が、それが悪いことだとは思わない。

最悪を想像できるから危機回避がしやすかったり、ネガティブだから変なことをしなかったり。

ネガティブはネガティブで有用なのである。

そう思えること自体はポジティブなのかもね。


僕は自分を知りたい。

だから岡田斗司夫さんの「四つのタイプ」の話はとても興味深い。

だけど、岡田さんも言うように、このタイプ分けは自分に対してではなく、人に対して使うもの。

人に対して使うことで「この人は〇〇型だからこういう風に接しよう」みたいな、人間関係の円滑化に効力を発する。

僕は僕を知りたいのに、これは「客観視」を前提としたツールなので一番使えない。

「法則型かな」と思うけれど、「司令っぽいな」もあるし、逆に「理想型か?」なんて時もある。

「注目型」は一番ない。

よくわかんないもん。

だから対象位置にある「法則型」が一番僕らしいのかもしれないけれど、日によって変わるから、やはり自分に対する判定には使えない。


自分探しが終わらない。

なぜ大人はあんなに生きていけるのだろう。

僕として何十年過ごしてみたけれど、僕はこの人のことが全くわからない。

大人は自分をわかっているのだろうか。

それともわからないままわからないなりに、試行錯誤しながら生きているのだろうか。

後者だろうなと思っている。

「どうせわからないのなら意味ないじゃん」と、自分を終わらせたくなる時もある。

唯一「殺人罪」が適用されない殺しである。

しかし、今日も終わらずに目が覚める。

もちろん何もしていないからであり、そんな覚悟も無いからである。

~大国日本に生まれ、同じ日本人であるはずなのに、彼らにできて僕にできないことがある。

常識的に考えれば「もったいないことを」と言うのかもしれない。

「これからもっともっとおもしろいことが見れますぞ」

『真田丸』で真田昌幸が北条氏政に言ったような、そんな言葉を投げかけたい。

が、言われる側を考えると、未来に繋がる「今」が嫌なのだ。

意味も無く、生き恥を曝しながら生きるのは辛すぎる。

終われるのだから終わりたい。


どっちもわかるのだ。

だからこそ、安易にどちらか一方の味方ができない。

僕が言えることはただ一つ。

「楽しいの中で生きていく」

これを僕は完遂する。

付いてくるか、来ないか。

選べ。


以上!くろだでした。

読んでくれてありがとうございました。

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ではまた👋

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