スヌーピー対ムラカミ・ハルキ 幻の空中線(その3)
【133面相と反戦デモ】
『A Peanuts Book Special featuring SNOOPY スヌーピーの133面相』という本があります。なんだか長いタイトルですが、横文字部分はシリーズ名で、『スヌーピーの133面相』がメインの書名みたいですね。
冒頭の序文によると、この本は「スヌーピーの扮装、変装をテーマに、厳選した133の変装、145篇のコミックを収録しました」とのこと。「掲載しきれなかったものを含めると、変装・扮装の種類は160以上!」とのことです。50年続いた新聞連載漫画『PEANUTS』とはいえ、160もの変装・扮装というのもすごいですよね。描いた作者もすごいですが、それを数える側にも根気が要求されます。
そう。世界で一番有名なビーグル犬、スヌーピーは様々な変装・扮装に身を包みます。格好を変えるだけじゃなく、その設定になりきるんですね。その時点でのスヌーピーは、犬の姿をしていても、空想の中では別のキャラクターになりきっている、というのが作中のお約束です。
『133面相』のページをぱらぱらとめくるだけでも、「フライングエース」(第一次世界大戦の撃墜王)「ジョー・クール」(サングラスの大学生)「リテラリー・エース」(世界的に有名な小説家)「アストロノーツ」(宇宙飛行士)……って感じで様々な姿を見ることができます。きっと「主人公の飼っている犬」という設定を越えて多種多様のキャラクターを描くため、長い連載の中で様々なネタを描くためにスヌーピーの変装が役立ったんでしょうね。読者もそれを承知で楽しんでいたというわけです。
それぞれの絵がデザイン的にも優れていることもあって、スヌーピーの扮したキャラクター自体が世界的に人気となっています。様々な扮装に身を包んだスヌーピーの姿、広告とか街行く人のファッションなどで目にしたことがある人も多いんじゃないでしょうか。それはスヌーピーであると同時に、何か別のキャラクターなんだ、という目で見ると、様々な姿のスヌーピーを眺めるのも楽しくなりそうです。
余談ながら……スヌーピーのTシャツやキーホルダーを身に着けている人でも、その格好が何というキャラクターでどんな背景があるかを知らない、なんてパターンも多いようです。僕は以前、反戦デモの参加者のTシャツでフライングエースを見て不思議な気持ちになったことがあります。きっと飛行帽姿のスヌーピーのデザインが気に入ってるんだろうなーとは思いつつ、「第一次世界大戦の撃墜王」って設定を知ってたら、戦争反対を訴える場には着て行きづらい服ですからね。
そりゃまあ、『PEANUTS』の中には、フライングエースが戦争のつらさを嘆いている作品もあるにはあります。でも「撃墜王の服を着ながら戦争反対」って姿にはやはり違和感を覚えちゃいます。以前アニメ作家の宮崎駿さんが「戦争反対なのに戦闘機が好き」という自分に矛盾を感じると述懐しておられましたが――フライングエースと反戦デモって組み合わせに、特に矛盾を感じない人もいるのかもしれません。
【ウーピー・ゴールドバーグとサリンジャー戦記】
「スヌーピーが様々な扮装で別のキャラクターになりきる」という観点から、さらにもう一歩踏み込んだ解釈もあります。例えば俳優・歌手のウーピー・ゴールドバーグさん。『天使にラブ・ソングを』などの映画で世界的に有名な彼女は『ピーナッツ全集』5巻の、インタビュー形式の序文でこんな発言をしています。
「スヌーピーのお兄さん」とは、細身と髭が印象的なスヌーピーの長兄、スパイクのことです。砂漠で孤独に暮らしていて、スヌーピーの兄弟の中では『PEANUTS』最多出演を誇るキャラクターでもあります。日本では他の兄弟たちの人気も高いですが、アメリカではスパイクが一番人気で関連グッズも多いんだとか。
そのスパイクについて、ウーピーさんは「別人ではない。スヌーピーの分身だと思う」と語っているわけです。前述したスヌーピーの扮装とは違い、作中でははっきりと別キャラクターとして描かれているスパイクまでも、「実はスヌーピー自身」という解釈です。もちろんどう解釈するかは人それぞれですが、ウーピーさんの説に従って『PEANUTS』を読み返してみると、スパイクの砂漠生活はスヌーピーの空想のようでもあり、その孤独な生活ぶりはスヌーピーの内心の寂しさを語っているようでもあって、なんとも味わい深いものがあります。
ウーピーさんが語った(というかそれを和訳した)のは「分身」という言葉ですが、その言葉は「オルターエゴ」と言い換えることもできそうです。――この言葉、元はローマ時代の哲学用語だったらしいですが、それが近代の心理学用語としても使われて有名になり、今じゃゲームやアニメやコスプレの用語としても使われているようです。ゲームやSNSなどで自分とは異なるアバターを使ったり、コスプレで普段とはまるでちがう外見になった時の自分を「オルターエゴ」と設定して、別人格になりきって楽しむというわけですね。
言葉の常で、オルターエゴというのも状況次第でいろんな意味を持つわけですが、村上春樹さんと翻訳家の柴田元幸さんとの対談ではこんな風に語られています。
さすがのハルキ節といいますが、「うなぎ」ってネーミングがいいですよね。これはウーピー・ゴールドバーグの「スパイク=スヌーピーの分身」という考え方にも通じる気がします。「読者がスパイクを通じてスヌーピーを理解する」ってことの反対像みたいな形で、「作者がうなぎを通じて読者に小説を届ける」って構図が浮かんできました。
そして「共有されたオルターエゴ」って考え方は、「スヌーピー対ムラカミ・ハルキ 幻の空中線(その2)」(https://note.com/kurobey286/n/nf6f2bc3bd4c0 )に書いた「三角測量」って考え方にも近そうです。要するに、何かを伝えたり表現したり、何かを解釈したりする際に、第三者を設定すると便利なんですよね。それはきっと、自分の立ち位置を確認したり違う視点から検討したりできるからでしょう。本稿でスヌーピーの扮装から春樹作品を考えてみようと思ったのも、そのあたりを意識してのことです。
【オルターエゴと『海辺のカフカ』】
では、春樹作品の中で、オルターエゴはどんな形で描かれているでしょうか。
村上春樹さんと柴田元幸さんの対談といえば、文春新書の『翻訳夜話」が有名です。読み返してみたところ、その2巻の『サリンジャー戦記』で「オルターエゴ」への言及がありました。
自作をあまり説明したがらない春樹さんが、こんなふうにはっきりとオルターエゴだと認めている例は珍しいと思います。まあそのくらい、カラスと呼ばれる少年は誰の目にもオルターエゴとして映るということでしょう。
『海辺のカフカ』のプロローグや奇数章は「僕」の一人称で語られます。そこにカラスと呼ばれる少年が登場し、「僕」と対話します。一人称の語りの文、地の文が、いきなりカラスと呼ばれる少年のセリフみたいになったりもします。その様はやはり「ある種のオルターエゴ」と読み取れるわけです。これを否定するのは難しいでしょうし、「オルターエゴとは何ぞや」と考える際の一つの典型例かもしれません。
『海辺のカフカ』は蜷川幸雄さんによって舞台化もされましたが、このオルターエゴについて独特の解釈がなされていました。「カフカ」と「カラス」という役名が設定され、二人の俳優によって演じられていたんです。別々の俳優によって演じられながら同じ人物であるようにも暗示され、なおかつ二人一役というのともちょっと違う、という面白い演出でした。
僕が観に行ったのは2019年の再々演でした。最前列の席がとれたおかげで、忘れられない思い出があります。
舞台の幕が開くと、大きなアクリルケースの群舞が始まりました。繁華街とか森とかの舞台セットが可動式の透明ケースの中に入っていることで有名な蜷川演出でしたが、僕にとってはケースの中に人がいたことの方が印象的でした。透明ケースの中に登場人物が閉じ込められ、舞台上を滑るように移動しているというプロローグだったんです。
透明ケースを押しているのは黒衣衆でした。日本の伝統的な黒衣とはちょっと違う、黒パーカを着てフードを被った姿です。主人公、カフカ少年は胎児のように身を縮め、透明ケースの中で眠っているようでしたが――僕はふと、彼のケースを押す黒衣の眼光に気づきました。
黒ずくめの衣裳ですっぽりとフードを被っている上、顔を伏せていたので、普通だったらその表情までは見えなかったはずです。でも僕の場合、最前列の一番端という席にいたおかげで、斜め下から見上げるような格好になり、黒いフードの奥がちらりと見えたんです。
そこにあったのは鋭い眼光を浮かべ、まっすぐにカフカ少年を見つめている、もう一人の少年の顔でした。
――「カラスと呼ばれる少年」だ!
さすがに声には出しませんでしたが、直感的にそう思いました。
無力な少年の姿と、強くなろうという意志。その二重性が二人の役者によって体現されている、と感じたんです。黒衣は影であり、カフカ少年の別の人格だ、カラスと呼ばれる少年なんだと伝わってきました。
透明ケースは脆くて幼いカフカ少年の心であり、オルターエゴはその心を守りながら共に進もうとしている意志だと理解したんです。この幻想的なプロローグで、主人公とオルターエゴのそんな関係が象徴されているのだと。
もちろんそれは、客席の隅にいる一観客の勝手な思い込みかもしれません。でも僕にとっては、そう思えた、そう気づけたってだけでも収穫でした。生での観劇ならではの醍醐味を、冒頭から味わえた瞬間でした。
それから舞台は暗転し、カフカ少年の家出の場面となりました。するとさっきまでの象徴シーンは幻だったみたいに消え、劇中における現実の時間が流れ始めたようでした。ほんの短い間しかなかったはずなのに、カフカ役の古畑新之さんもカラス役の柿澤勇人さんもがらりと違う格好になっていました。
僕は一瞬、さっき垣間見た黒衣の顔が見間違いだったのかとも考えました。原作が頭にあるからカラス役の柿澤勇人さんが黒衣をやってるように錯覚しただけで、やはり黒衣は黒衣、目つきが鋭いスタッフだったのかなー、なんて懸念も涌いてきたんです。
でもフードの下の顔は確かに柿澤さんだった、って思いもありました。そこで――観劇後、アンケート用紙にその疑問を書いておきました。疑問に答えてもらいたいというのもあったんですが、カラスと呼ばれる少年だと直感した時の感動を書き留めたくなったんです。
すると後日、意外なところから回答がもたらされました。柿澤さんのファンクラブの企画か何かで、上演後のアフタートークがあったそうなんですが、そこで僕のアンケートのことが紹介されたというんです。回収されたアンケート用紙が舞台裏に張り出され、「カフカ少年のケースを押していた黒衣の目つきが鋭かった」という声をスタッフ・キャストで面白がっていたんだとか。――その黒衣の正体だった柿澤さんは、それを笑い話みたいに語っておられたそうです。
それを聞いたファンの方からの情報で、僕は自分の直感が正しかったと知りました。同時に、象徴シーンの顔の見えない黒衣役の時点で既に「オルターエゴとしてのカラス」という姿を演じ切っていた役者魂に、改めて感動を覚えました。
それ以来、春樹作品を読む時には、頭の片隅でオルターエゴの存在を意識するようになりました。小説『海辺のカフカ』の象徴性を舞台版『海辺のカフカ』に視覚化してもらったおかげで、読書の際の視野を広げてもらったような気がしています。
【解釈と両義性】
そもそも村上春樹作品を読んでオルターエゴについて考える人は多いようです。巷で見かける村上春樹論の多くでも、主人公のオルターエゴが話題にされています。
たとえば初期三部作。「鼠は語り手『僕』のオルターエゴである」とする説があります。作中ではっきりそう書かれてるわけじゃありませんが、そう解釈する人が多いんです。まあ解釈は人それぞれですが、そのわりに断定的に書かれてる例も少なくないようです。また断定的な文章には妙な力があって、「オルターエゴなのだー!」と断じる文章を読んだ人が、さも正解を知っているかのように吹聴している、なんて例も結構見かけます。
他にも、『ノルウェイの森』のキズキがワタナベのオルターエゴだという説もあります。『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田くんが「僕」のオルターエゴだという説もありました。他にもすみれとかシナモンとか免色とか、たくさんのキャラクターについて誰かしらのオルターエゴだとする説が語られていました。
そう言われればそうかなーとも思いますし、さすがに無理があるかなという説もあります。「つまるところ小説の登場人物というのは作者のオルターエゴなのである」なんて言い方だってできそうです。この手の仮説は何だって言えちゃうところがあって、あとは自説に都合のいい論拠を並べていけばちょっとした文芸評論のできあがりです。自分なりにそういう解釈をするのは楽しいものですが、あまり説得力のない説には首を傾げたくなるし、勝手な断定のあげくにそれが文学なのだとふんぞり返っているような文章ってのも困っちゃいますよね。
その点、ちょっと事情が異なるのが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』です。この作品では作中にはっきりとオルターエゴを暗示する内容が存在していますので。
まず「世界の終り」パートの一人称「僕」と「ハードボイルド・ワンダーランド」パートの一人称「私」が同一人物なんじゃないか、互いのオルターエゴなんじゃないかというのがそもそもの基本設定になっています。さらに「世界の終り」パートでは主人公「僕」のオルターエゴのような存在が「影」である、ということにもなっています。もともと一体であった二人が鋭利な刃によって切り裂かれる、なんてシーンもありました。これは「読者によるオルターエゴという解釈」ではなくて、「作者がオルターエゴを意識して創作した作品」といえると思います。
同じことは、『海辺のカフカ』や『街とその不確かな壁』にも当てはまります。だからこれらの作品を読む際には、オルターエゴってことを頭においておいた方が面白いんじゃないでしょうか。――ってことで、ようやく本題に入ります。
『街とその不確かな壁』が発売直後から話題になり、批評・書評・紹介・感想の類がメディア上やネット上で発表されました。そんな中、個人的に引っかかった指摘があります。
“村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』は、「街」を出た後の「私」について書かれた作品である”
文章の細部はそれぞれでしたが、複数の人が同様の指摘なり作品紹介なりをしていました。
もちろん村上春樹自身の発言にもたびたびあるように、作品の解釈は読者に委ねられているわけですが……単純な事実確認のレベルで、ちょっと違ってます。『街とその不確かな壁』のチャプター26、第一部のクライマックスにおいて「街」を出るのは、「私」じゃなくて「影」の方なんです。
ページにすると183ページ、分厚い本の、実に三分の一にも満たないあたりで「影」は「溜まり」に飛び込んで「街」から出ていきます。「私」の方はと言えば、壁の中にとどまっていつものように図書館に向かいます。そこで、三部構成の第一部が終了となっています。
そして続くチャプター27、第二部に入ると、「街」ではなくて現実の世界で物語が進行します。一人称こそ「私」になっていますが――順当に考えれば、この「私」というのは「街」を出た後の「影」のことなんじゃないでしょうか?
つまり、上記の文章で言うなら、こういうことになります。
“村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』は、「街」を出た後の「影」について書かれた作品である”
そう考えれば、オルターエゴたる「影」が、「街」を出たその後、現実世界でどう生きたのか。と読むこともできます。これは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にはなかった視点ですから、『街とその不確かな壁』オリジナルのストーリー展開として楽しむことができそうです。
もちろん断定はできません。というより、村上春樹はそのあたり、断定できないように周到に書いているように見えます。第二部の「私」は、第一部の「影」かもしれないし「私」かもしれない、その両義性が物語を味わい深くしてくれています。
「私」という一人称は第一部にも第二部にも出てきます。ただし、それが同一人物かは分からない。確かなのは、第一部では語り手とオルターエゴが分離したこと、第二部ではそのどちらかが語り手を務めている、ということでしょう。そうであれば、第二部の「私」がどちらの方なのかは決めつけない方がいいんじゃないでしょうか。
第二部冒頭には、こんな文章がありました。
「どうして私は今、この世界に戻っているのだろう?」という疑問に対して、「壁に囲まれた街における『影』が、この世界に戻ったことで『私』としての自意識を持つようになった」と考えてみてはどうでしょう? それなら「街に残ったはずなのにこの世界に戻っている」ということに対しての説明がつきます。
もちろんこれは仮説にすぎません。でも僕にはその仮説の方が、「ただただ長い夢を見ていた」という説明よりもずっと魅力的に思えるんです。特に反証もないようなら、「仮説は仮説として機能している」ってことにしても、読書の妨げにはならないんじゃないでしょうか?
【焼き直しという批判、への批判】
『街とその不確かな壁』に対する批判的な声によく見られたのが「村上春樹な要素が満載」という指摘でした。村上春樹自身も『街とその不確かな壁』のあとがきで、ボルヘスを引用する形で「限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ」と語っています。
そして少なからざる人は、過去作にあった要素がまた出ている、単なる焼き直しだ、発想の貧困だ、老化現象だ、などと批判しているわけですが――僕としては、その結論に違和感を覚えずにはいられません。
いえ「村上春樹な要素が満載」ということに異を唱えるつもりはありません。でも、イコール「これはダメな作品なのだー」って結論は早計だと思うんです。そういう批判で満足している人たちは、僕が考えたような「第一部の『影』が第二部の『私』になる」みたいな仮説を検討したりはしていないと思うんです。仮に「村上春樹な要素が満載」だとしても、その要素を再構築して全く新たな物語が提供されているなら、それを「焼き直し」なんて片付けてはもったいないです。少なくとも批判する前に、ちょっと考えてみたっていいですよね。
認知科学によると、人の脳は類似を見つけやすくできているんだそうです。二つのものが並んでいたら、何かしら似ているところを見つけたくなる、みたいなことですね。村上春樹の過去作と新作があったら、そりゃあ共通点くらいすぐ見つかるってわけです。
そうして何かしら類似性を認識し、そこから類推を広げて思考を発展させていくというのが一つのパターンだと思うんですが――「似ている! 焼き直しだ!」と批判して満足、で終わっちゃったら思考の発展はないですよね。
もっと言えば、「村上春樹な要素が満載」というのは、ただ気づいたことを誇りだたいだけだろうとも思えます。ネットでは、その一点でマウントをとろうとしてる人が目立ちます。マウントをとるための安直な結論が、「焼き直しだからダメ」って声なんじゃないでしょうか。似たような人たちで集まって「そうだ焼き直しだ」「ダメだダメだ」と盛り上がるのは楽しいかもしれませんが、あんまり生産的・創造的じゃないですよね。そういう人たちは、仮にこれまでと全く違う新作が出たら出たで、「村上春樹らしくない」とか「期待と違う」とか批判していそうな気がします。結局のところ、話題になってるけど反論はしてこない村上春樹作品を批判して満足したいだけなんじゃないかと。
類似に注目するなら、差異にだって目を向けるべきです。『街とその不確かな壁』第一部を見るだけでも、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」パートとの差異はたくさんあります。名詞の表記とか台詞の口調とかは、意識して別物にしたようにさえ見えます。それは何のためなのか――と考えてみるだけでも、想像は膨らみます。
表記や口調が違う理由は、まず違う作品であることを明確にするためだと思います。もちろんそんなのは僕の感想にすぎませんが、他ならぬ『街とその不確かな壁』のP186にこんな文章が出てきました。
この、「いくつかの異なった現実」というのが『街とその不確かな壁』に至るまでの作品群であり、「異なった選択肢」というのが、主人公やオルターエゴの行動なんじゃないかと思います。つまり我々読者が楽しむべきは、類似と差異を含めた「総合体」の方だろうと思えてなりません。
僕は昔ばなし大学という市民大学で、主宰者の小澤俊夫先生の提唱する昔話理論や、スイスの文芸学者マックス・リュティの理論を学んだんですが、その中で、何度も村上春樹のことを思い出しました。
例えば学んだことの一つに、「子供は既知のものと出会いたがっている」という言葉があります。子供が同じ絵本を何度も読んでもらいたがる心理について、既知のものと再び出会うことは喜びであり、安心につながる、絵本や物語、昔話というのはそれを与えてくれるメディアなのだと説明されたんです。同じ心理は大人にだってあるとも指摘され、自分を振り返ってみて、たしかにそうだなあと納得がいきました。
そしてこの理論、『街とその不確かな壁』にあてはめることだってできそうです。読者は総合体としての物語を通して、既知のものと再び出会うことができます。そして差異を通して新たな現実、新たな選択肢に踏み出すことだってできるわけです。――僕は個人的に、そうやって『街とその不確かな壁』という作品を楽しむことができました。
【あらためてウーピー仮説】
ここで、ウーピー・ゴールドバーグさんの説を思い出してみましょう。――スヌーピーと兄のスパイクを、スヌーピーの「分身」と捉える考え方です。同一人物だけど違うキャラクターとして描かれている、という仮説を受け入れてみるんです。
『街とその不確かな壁』では同じように「私」と書かれているのでややこしいんですが、あくまで便宜的に、第一部の「私」を「スヌーピー」、第二部の「私」を「スパイク」と呼ぶことにします。二人は同一人物かもしれないし、別人格かもしれない。そして互いのオルターエゴ同士かもしれない。そんなことを頭の片隅におきながら読み進めると、物語は不思議な多層性を帯びてきます。
第一部、門衛のナイフによってスヌーピーとスパイクが切り離されます。スヌーピーは壁の内側の「街」に馴染んでいきますが、スパイクは壁の外の世界に出ていくことを願い、計画を立ててついに実行します。それに協力したスヌーピーですが、自分は壁の内側にとどまることを選びます。
そして第二部は、壁の外に出たスパイクの物語です。スパイクは外の世界でついていた仕事を辞め、田舎の町営図書館で働くようになります。その町はどこか壁の中の「街」に似ていて、現実よりも「街」に近そうな人物との出会いもあります。現実の中で心惹かれる女性もいて、スパイクと彼女は次第に親しくなっていきます。
ですが第二部の終章、チャプター62において、スパイクは再び壁を「通り抜け」ます。通り抜けた先が「街」であるかは明らかにされていないようですが、そこには浅い川が流れていて、水の流れを遡って歩くにつれて若返っていきます。「四十代半ばの心と記憶の蓄積を保持したまま」、身体だけが若くなっていくんです。そして十七歳に戻った頃、かつての恋人と再会し、やがて彼女から告げられます。
「わたしたちは二人とも、ただの誰かの影に過ぎないのよ」
そうして第二部の最後の場面、スパイクは「はっと覚醒する」「現実の台地に引き戻される」と書かれているのですが、続く第三部で「現実」の世界が描かれることはありません。チャプター63からは、何ごともなかったように「街」での生活が語られていきます。
ここでの文章も「私」による一人称なんですが――この「私」は、スパイクでしょうか、それともスヌーピーなんでしょうか?
600ページには「イエロー・サブマリンの少年」という人物が出てきます。「私」は「その少年の姿を目にするのは初めてのことだった。もし前に一度でも見かけていれば、間違いなく記憶に留めているはずだ」と語ります。
ですが読者は、既にイエロー・サブマリンの少年を知っています。第二部の現実世界の図書館に登場していた人物なんです。そしてスパイクは彼と何度も会っています。スパイクが彼自身の「心と記憶の蓄積を保持している」のなら、「間違いなく記憶に留めているはず」ですから、第三部の「私」はスヌーピーの方だ、ということになります。
このスヌーピーに対して、イエロー・サブマリンの少年は「ぼくらはもともとがひとつだったのです」と告げ、「一体化」を求めます。――ここでもオルターエゴという言葉が強く想起されますが、その点を考察すると長くなります。話の筋を追っていきましょう。
一体化したスヌーピーと少年は、「夢読み」として図書館で働きます。平穏な日々が続くかと思われましたが、スヌーピーには「ここを立ち去るとき」が近づいてきます。それはスヌーピーが「影ともう一度ひとつになる」ということであり、少年が「夢読み」の後継者となることでもあります。
そして立ち去る方法が伝えられ、スヌーピーは迷いの後で「街」を出ることを決意します。別れの場面を経てロウソクの炎が吹き消されることで物語が終わります。
……と、物凄く大雑把に要約してみました。スヌーピーとスパイクという名前を補助線みたいに使うことで、第一部・第二部・第三部の構造を把握しやすくなると思うんです。
ある側面から捉えれば、『街とその不確かな壁』は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とは正反対の構造を持っています。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では「僕」と「影」が別れ、「僕」が壁の中にとどまって終わりますが、『街とその不確かな壁』では「私」が壁から出ること、「影」とひとつになることが示唆されて終わっているんですから。
それを安易に「焼き直し」と片付けてはもったいないです。むしろ両作品を読み比べることで、「異なった選択肢の絡み合いから総合体を意識する」ことが可能だし、そのあたりを楽しもうよ――というのが、僕の個人的な提言です。
もちろん、それが正解なんて言うつもりはなくて、誰か共感してくれたり、一緒に楽しんだりしてくれたりするといいなーってくらいの思いなんですが。
【子犬とその乗り越えた壁】
最後にもう一つ、『PEANUTS』作品を引用したいと思います。
1972年8月16日に発表された4コマです。ライナスとチャーリー、親友2人の会話から始まって、スヌーピーの回想がオチをつけてくれます。
……この作品、不思議なくらい『街とその不確かな壁』と響き合うような気がするのは、僕だけでしょうか?