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スヌーピー対ムラカミ・ハルキ 幻の空中線(その2)

【双子と羊とやれやれと】

 いきなりですが、クイズです。
 以下のキーワードから連想される作家といえば、誰でしょう?

 「数字の双子の女の子」
 「やれやれ」
 「羊の衣裳」

 ……こういう問題を出されたら、大抵の回答者は、「村上春樹」と答えるんじゃないでしょうか?
 208と209という双子の女の子とか、主人公がつぶやく「やれやれ」というセリフとか、羊の衣裳姿の羊男とか、村上春樹の代名詞みたいになってますよね。
 続きのヒントとして、「ドーナツ」とか『グレート・ギャツビー』なんてキーワードを付け加えてもいいかもしれません。春樹作品をある程度読んでいる人なら、確実に村上春樹という回答を思いつくはずです。
 そこで「スヌーピー」というヒントも足してみたらどうでしょう。「スヌーピーは春樹作品のキャラクターじゃないな」と答えに迷う人もいるかもしれませんが、詳しい人なら逆に「春樹作品でもスヌーピーに言及している」と思い当たるかもしれません。引っ掛け的なヒントとして面白くなりそうです。
 はい、実は、このクイズの正解は、村上春樹じゃありません。それをはっきりさせるために、最終ヒントとして「スパイク」とか「オラフ」とか「アンディ」とか、スヌーピーの兄弟の名前を並べておくってのはどうでしょう。
 そういうキーワードから連想される作家といえば誰か。――もちろん正解は、「チャールズ・シュルツ」です。ヒントにあげたキーワードは、スヌーピーの兄弟の名前以外は全て、村上春樹作品にも『PEANUTS』にも出てくるんです。
 そのくらい、村上春樹作品とシュルツの『PEANUTS』には共通の要素が多いわけです。

【数字の双子の女の子】

 まずは双子の女の子について。
 数字で呼ばれる双子の女の子、といわれたら、村上春樹を連想する人って多いと思います。『1973年のピンボール』に登場した、208と209と呼ばれる双子の女の子ですね。
 短編『双子と沈んだ大陸』や、絵本『羊男のクリスマス』にも登場する、ファンにはすっかりお馴染みのキャラクターです。僕の友人には、村上春樹を読んでいるうち、すっかり双子の女の子というのが好きになって、いつか双子の女の子の恋人をもちたいと言っている奴がいました。できることなら双子の女の子と結婚したいと夢を語る独身男でしたが……その後、彼の夢はかなったのかなあ。
 まあそれは極端な例にしても、数字の双子というのが村上春樹作品のアイコンみたいになっていた時期はあったと思います。昭和や平成の頃には今よりもっと「村上春樹といえば双子の女の子」というイメージが強かったんです。
 ところが「数字の双子の女の子」というのは、『PEANUTS』にも出てきます。発想は村上春樹と全く同じといってもいいようなキャラクターです。
 というか、「数字で呼ばれる双子の女の子」を作品に登場させたのはシュルツの方が先です。1963年10月17日の作品に、3と4いう名前の双子が登場しています。日本ではつい「サンとヨン」と呼んじゃうけど、アメリカなら「スリーとフォー」ですね。
https://www.gocomics.com/peanuts/1963/10/17
 ちなみに彼女たちのお兄さんの名前はファイブ、彼らの苗字は95472で、シュルツが住んでいたカリフォルニアの街の郵便番号にちなんでるんだとか。その郵便番号がきっかけで彼らの父親が理性を失い、数字だらけの世の中に嫌気がさして家族の名前をみんな数字にしてしまったという設定です。
https://www.gocomics.com/peanuts/1963/10/01
 一方の村上春樹では、何から何までそっくりな双子を見分ける方法はトレーナー・シャツにプリントされた白抜き数字しかないという設定です。スーパー・マーケットの開店記念で先着順に無料配布されたシャツなんだそうで、ティッシュ・ペーパーを三箱買った双子は208人目と209人目のお客だったんだとか。
 この双子、ちょっとファントムというか、リアリズムを離れた雰囲気も漂っています。いくつもの別れをクールに描いた『1973年のピンボール』という作品の中で、双子の存在はある種の親しみやユーモアをもたらしてくれるようでもあります。
 「そんな双子の元ネタは『PEANUTS』である!」と、断言したいところですが、ひとまず我慢しておきます。ですが村上春樹が『PEANUTS』を読んでいたのは間違いないようですから、影響を受けていたのは事実でしょう。そしてハルキとシュルツの「数字の双子の女の子」の描き方を見比べることで、両者の作風の違いが見えてきます。

 まずシュルツの方は、明らかに笑いのネタとしての数字です。普通はそんな名前はつけないよねって前提の上で3とか4とか5とかの名前をつけちゃったってことのおかしさがありますし、何でも番号をつけてしまう世の風潮への風刺にもなっています。なにしろ新聞連載の4コマ漫画ですから、一種の社会批判性が笑いどころだったのかもしれません。――そのあたり、マイナンバーカードの導入でいろいろ揉めてる現代日本にも通じるものがありそうですね。
 一方のハルキの方では、208とか209というのは便宜的な名前にすぎません。『1973年のピンボール』で主人公が、「君を208と呼ぶ。君は209。それで区別できる。」と言い出すんですが、途端に双子は互いのシャツを交換して呼び名の意味をなくしてしまうんです。あるいは、数字というより名前とか個別性とかを消し去ることこそが双子の存在意義なのかもしれません。
 『村上朝日堂 はいほー!』というエッセイ集に収められた「村上春樹のクールでワイルドな白日夢」という一編では、双子という存在についていろいろと語られていますので、いくつか引用してみます。


 双子の良さというのは、一言で言ってしまえば「ノン・セクシャルであることが同時にセクシュアルであるというクールな背反性」にあると僕は考えている」

(新潮文庫『村上朝日堂 はいほー!』P57)

僕が双子に求めているのは、そのような男と女一対一のリアルな仮説を排除した、いわば形而上的な領域なのである。

(新潮文庫『村上朝日堂 はいほー!』P58)

僕が追及しているのは、制度としての双子である。コンセプトとしての双子である。そしてその双子的精度なりコンセプトの中で自分を検証してみることなのである。

(新潮文庫『村上朝日堂 はいほー!』P58)

僕は双子という状況が好きだ。双子とともにいるという仮説の中の自分が好きだ。彼女たちの持つ密やかな分裂性を僕は好む。彼女たちの持つめくるめく増殖性を僕は好む。彼女たちは分裂し、同時に増殖する。

(新潮文庫『村上朝日堂 はいほー!』P60)

 こうして並べてみると、なかなか含蓄深いというか、意味深長と意味不明のボーダーラインみたいな文章ですが。
 僕としては、「双子とともにいるという仮説の中の自分」という表現が腑に落ちました。それって、『1973年のピンボール』という小説の主人公の設定にそっくりあてはまると思うんです。ハルキ作品では主人公と対をなす「女の子」の存在がお馴染みですが、その「女の子」が分裂し、同時に増殖するという仮説が「双子」という存在で、その仮説の中で紡がれるストーリーが『1973年のピンボール』なのだ、と考えると作品への理解が深まるかもしれません。
 もっといえば、ハルキ作品にかぎらず、文学とか小説とかいうのは「仮説の中の自分」を書いたり読んだりするものなんじゃないでしょうか。それはどんな仮説なんだろうと考えることは、作品を理解したり楽しんだりする一助となるんだと思います。
 数字の双子の女の子を通してシュルツとハルキを読み比べながら、そんなことを考えました。

【「やれやれ」と「GOOD GRIEF」】

 次に「やれやれ」という台詞について考えてみます。村上春樹と『PEANUTS』の共通点を探す時、真っ先に挙げられるのは「やれやれ」って言葉かもしれません。そしてこの言葉からも両者の違いが浮き彫りになるんです。
 ビールを飲んでスパゲティーを茹でて「やれやれ」と呟く――村上春樹の作風を説明したり文体を真似たりする際の定番ですよね。そういう本やサイトは数多くあります。
 パスタやビールはともかく、口癖の方は『PEANUTS』の登場人物にも共通しているようです。日本語で「やれやれ」と訳される「GOOD GRIEF」という台詞について『ピーナッツ全集』で調べてみると、初出は1952年6月6日。こんな話です。

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1・活発な少女ルーシーが、内気な主人公チャーリー・ブラウンに声をかける。
「すごく大きな虫(バグ)あげようか? チャーリー・ブラウン?」
 本を読んでいるチャーリー、「うん」と生返事。

2・ルーシーは「ほら!」と、持っていた虫(バグ)をチャーリーの目の前に

3・驚いたチャーリーは「キャー!!」と、本を放り出してひっくり返る。

4・チャーリー、「やれやれ、ルーシー! 『ハグ』って言ったんじゃなかったの!」
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https://www.gocomics.com/peanuts/1952/06/06

 チャーリーは「ハグ(HUG)」だと思って返事したら「バグ(BUG)だった、という地口オチです。
 このチャーリーの態度が興味深いです。読書しているところを驚かされ、邪魔されても本気で怒ってはいません。4コマ目ではルーシーも驚いたように尻餅をついてますが、チャーリーは彼女に向って困ったような顔を向けています。台詞だってルーシーへの文句というよりは自分の勘違いを悔やんでいるようにもとれます。
 人を責めるより、自らの勘違いを振り返ってため息をつく。ここでの「GOOD GRIEF」=「やれやれ」からは、悲運を嘆きつつも受け入れる姿勢が見てとれます。一種の諦観、おとなしくて内向的な主人公像が浮かび上がってくるわけです。
 ちなみに、この前日の作品も似たシチュエーションで描かれています。座って本を読んでいるチャーリーに、ルーシーが声をかけて読書の邪魔をする、という点ではほぼ一緒。読書好きで内向的な主人公に、活発な少女が絡んで物語が展開する――そんな構造にも村上春樹作品に通じるものを感じるのは僕だけでしょうか?
 それはともかく、谷川俊太郎が『PEANUTS』の翻訳を手掛けたのは1967年からだそうです。村上春樹がデビュー作『風の歌を聴け』を書いたのは1978年で、それが群像新人賞を受賞して作家活動に入るのは翌79年。小説に「やれやれ」と書く前に『PEANUTS』の「GOOD GRIEF」=「やれやれ」を読んで影響を受けていた、と考えても時系列的には無理がないことになります。
 時系列といえば、「やれやれ」という表記に落ち着く前の段階では、カタカナで「ヤレヤレ」と表記されていたんだとか。谷川俊太郎のエッセイ「チャーリー・ブラウンの世界」の中で書かれています。(谷川俊太郎『散文』晶文社 所収)
 もともとは共訳者の徳重あけみが「ヤレヤレ」と訳していて、谷川俊太郎が「ムナシイ」とか「カナシイなァ」などと変えたりもしたそうです。しかし結局は「無難な線」である「ヤレヤレ」に戻したそうで、直接的な感情表現よりもため息に近い語感が選ばれたわけですね。やがて谷川俊太郎が単独で邦訳を手掛けるようになり、「やれやれ」というひらがな表記が定着していったということで――そんな受容の経緯にも、「やれやれ」的な諦観が漂っているようですね。


【「やれやれ」と時代背景】

 ところで、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(講談社文庫)には「やれやれ」は出てきません。
 初期三部作の語り手の「僕」も親友の「鼠」も、いかにも「やれやれ」と呟きそうなキャラクターですが、『風の歌を聴け』でも第二作の『1973年のピンボール』(講談社文庫)でも、そういう台詞は一つもないんです。台詞としての「やれやれ」を探してページをめくっているとじれったくなるほどでした。
 初めて「やれやれ」という言葉が出てくるのは1980年発表の『1973年のピンボール』です。チャプター13、ピンボールの修理人が点検のためにジェイズ・バーを訪れるシーンです。


ドロップ・ターゲット、キックアウト・ホール、ロート・ターゲット……、最後にボーナスライトを点けてしまうとやれやれといった顔付きでボールをアウト・レーンに落としてゲームを終えた。

『1973年のピンボール』チャプター13

 ここではまだ「やれやれ」も目立たないですね。台詞ではなく地の文ですし。
 事情が変わってくるのは、1982年発表の長編『羊をめぐる冒険』(講談社文庫)からです。まず主人公の仕事仲間や恋人から「やれやれ」という台詞が出て、やがて地の文にも登場し、ついには台詞で繰り返されるようになります。


「やれやれ」と僕は言った。やれやれという言葉はだんだん僕の口ぐせのようになりつつある。

(『羊をめぐる冒険』第七章 2 羊博士登場)

 今回『羊をめぐる冒険』を読み返して、ちゃんと段階を踏んで口癖になっていることに感心しました。周りの人間が口にしていた言い回しが自分にもうつる、って流れに説得力を感じちゃいます。
 さらに「やれやれ」は、語り手の「僕」だけじゃなく、作者村上春樹の口癖にもなったようです。この後に発表された『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『ノルウェイの森』でも「やれやれ」は頻出します。『羊をめぐる冒険』の続編たる『ダンス・ダンス・ダンス』ではなおのこと。村上春樹の本はたくさんの「やれやれ」で彩られています。
 時代は1980年代後半、村上春樹の本はベストセラーリストの常連となっていましたし、僕自身もまさにその頃から村上春樹を読むようになりました。その頃にはもう、「村上春樹といえば『やれやれ』」というイメージも定着していたと記憶しています。
 そして1980年代といえば、『PEANUTS』の日本における版元が角川書店となり、角川春樹のメディアミックス戦略でファンを増やした時代でもあります。それが村上春樹作品における「やれやれ」の浸透と時期が重なっているのは――偶然だとは思うけど、春樹って名前の一致もあって不思議とシンクロしているような気がします。

 一方の、『PEANUTS』における「GOOD GRIEF」=「やれやれ」の定着を見てみましょう。
 『ピーナッツ全集』1巻の巻末索引で「GOOD GRIEF」を引くと、その後パティという女の子の台詞に「やれやれ!」と出てきます。言っている相手はやはりルーシー。パティの方がルーシーより年上なので、テニスを教えようとしてじれったくなったという場面です。(https://www.gocomics.com/peanuts/1952/07/15 )
 1巻ではその2回きりですが、2巻ではシュルツも口癖化したのか、実に26回も出てきます。チャーリー、スヌーピー、シュローダー、ルーシー、シャーミー、ライナス、シャーロット……と、当時の主要キャラクターのほぼ全員の台詞になっています。
 以後の「GOOD GRIEF」は文字通り数えきれません。最後に出たのはいつだろうと気になって、『ピーナッツ全集』25巻を調べてみました。索引によると1999年10月24日、サンデー版と呼ばれる掲載スペースの広い作品でした。(https://www.gocomics.com/peanuts/1999/10/24
 発言者はルーシー。チャーリーに初めて「GOOD GRIEF」と言わせた彼女が、最後は自らこの言葉を発することになったというのも奇しき因縁ってものかもしれません。さらに奇しくも、この日の作品は、「フットボール・トリック」と呼ばれるネタの最後の回でもありました。
 地面にフットボールを立てたルーシーがチャーリーに向かって、「私がボールを支えてるから、あなたは走ってきて蹴るのよ」と告げるというシチュエーションギャグです。定番ネタとして、フットボールシーズンの始まる頃になると毎年のように繰り返されました。チャーリーが言われた通りに思い切り蹴飛ばそうとすると、ルーシーはボールを引っ込めてしまいます。空振りしたチャーリーは勢い余ってひっくり返る……というのがいつものパターンです。
 しかし、この日の展開は違っています。ルーシーは仕掛けたイタズラの結末を知ることができないという展開なんです。おかげで気になって仕方なくなるわけですが、その状況こそがまさに「GOOD GRIEF」という言葉にぴったりでもあります。

 「GRIEF」という単語には、悩みとか嘆きとか苛立ちとか困難とかの意味があるんだとか。そこに「GOOD」がつくことで、驚きや諦めの定型句となっているわけですね。
 嘆かわしい状況でも「やれやれ」と受け入れる――そんな姿勢は、『PEANUTS』と村上春樹に共通しています。ただしその表現効果は微妙に異なっていて、まず笑いを生む『PEANUTS』に対し、村上春樹作品ではクールさやタフさの演出ともなっているようです。
 「やれやれ」を通じて、両者の作風の違いが浮かび上がってくるんですね。

【ベートーベンと三角形】

 さて、ここで最初のクイズから少し離れて、『ピーナッツ全集』と村上春樹に共通するモティーフを探してみましょう。僕は先日、「ベートーベンの伝記を読む」というのを見つけました。
 『PEANUTS』には、トイピアノ弾きのシュローダーというキャラクターがいます。玩具のピアノの、音域の限られているはずの鍵盤で数々の難曲を弾きこなす天才少年なんですが、彼はベートーベンの熱烈なファンでもあります。小さな子供が絵本を楽しむように、物心つく頃からベートーベンの伝記に親しんでいる姿が描かれます。
 まずは『ピーナッツ全集』1巻、1951年10月10日の作品。こんな4コマです。


1・チャーリーが、幼いシュローダーに何か読み聞かせている。
2・それを見たパティが、「何を読んでるの…おとぎ話?」と尋ねると、シュローダーはムッとする。
3・チャーリーは、「シュローダーはおとぎ話なんか興味ないんだ…」と説明。
4・「これはベートーベンの伝記さ!!」

https://www.gocomics.com/peanuts/1951/10/10

 全集の3巻に進む頃にはシュローダーも成長してチーリーと同じくらいの体格となっています。二人は友達同士としてベートーベンの伝記を楽しんでいて、チャーリーの朗読に反応してシュローダーが声を上げるというモチーフがお馴染みとなります。1955年3月17日では「はったりに負けるなベートーベン!」と叫ぶし、翌18日では一緒に聞いていたルーシーに向かって「きみたち女はみんな同じさ!」と因縁をつけて、その熱烈なファンぶりがオチになっています。
 例をあげるときりがないんですが、僕はそんな場面を目にするたびに、『海辺のカフカ』(新潮文庫)を連想せずにはいられません。こちらは2002年に発表された村上春樹の長編小説ですが、『PEANUTS』にベートーベンの伝記が出るたびに「星野ちゃん」と呼ばれるトラック運転手の青年が思い出されるのです。
 『海辺のカフカ』の第34章、星野青年はふと立ち寄った喫茶店でベートーヴェンの『大公トリオ』を耳にします。それまで音楽に興味などなかった彼ですが、翌日も同じ店でまた『大公トリオ』を聴き、後日CDも買い求めます。滞在する部屋や運転する車で何度も聞き返し、やがて行きついた図書館で『ベートーヴェンとその時代』という伝記を閲覧することになります。
 曲に聴き入ったり本を読みふけったりする間、彼は様々な思索をめぐらせます。喫茶店主や図書館員とはベートーヴェンについて語り合います。――『海辺のカフカ』の読者にも人気の場面です。
 ベートーベン(『海辺のカフカ』での表記は原語の響きに近い「ベートーヴェン」ですが、ここはカタカナ読みでいきます)の音楽の素晴らしさについては様々な形で語られています。しかし『PEANUTS』と『海辺のカフカ』には、凡百のベートーベン論とは違う優れた点があるようです。それは、異質なものとの結びつきによって素晴らしさを描き出し、読者を引き込むという表現効果です。
 『PEANUTS』では「トイピアノしか弾けない男の子」が、『海辺のカフカ』では「音楽と無縁だったトラック運転手」がベートーベンに魅了されていきます。彼らの姿を通して読者にもベートーベンの魅力が伝わってくるわけです。なにしろシュローダーや星野青年という存在と、ベートーベンとの間には距離があります。その距離のおかげで両者を繋ぐ線をイメージできます。その線が長ければ長いほど、読者は空中に伸びるまっすぐな線を眺めて楽しむことができる、といえそうです。
 これが例えば「世界的音楽家」とか「クラシック通」とかの設定だったら話が違っていたでしょう。もともとベートーベンに近い位置にいる者が魅力を説いても意外性に欠けますよね。両者の距離が近いためにその間の空中線も見えづらく、一般読者の楽しみとなりづらい、ってことになるわけです。
 いってみれば三角測量みたいなものです。ベートーベンの位置と魅了される登場人物の位置、それから読者の位置を結ぶ空中線で三角形を作れれば、互いの位置を測ることができます。だけど位置が近すぎたり同一線上にいたりすると三角形として認識できず、測量はしづらくなります。作品から受ける感興にも同じ現象があるんじゃないでしょうか。
 読者はシュローダーや星野青年の存在によって、ベートーベンやその音楽について立体的に把握できます。シュローダーがそれほど憧れる音楽家とはどんな人物かと想像も広がるし、星野青年を思索に導いた「大公トリオ」とはどんな曲かと興味も深まります。モチーフとキャラクター、そして読者を繋いだ三角形が、読書をより豊かなものにしてくれるわけです。


【羊の衣裳とキュレーター】

 さて、ここまで双子と「やれやれ」とベートーベンを通して、シュルツとハルキの共通点や相違点を眺めてきました。そこから「村上春樹はこのようにシュルツの影響を受けていたのだ!」なんて結論を導くことだってできそうですが――それで終わってはいささか安直ってもんです。ここらで逆の例も挙げておきましょう。
 実は、それが冒頭のクイズの最後のヒントとして挙げておいた「羊の衣裳」っていうキーワードです。
 村上春樹ファンなら、羊男というキャラクターを知らない人はいませんよね。『羊をめぐる冒険』に登場した謎の存在です。なんと村上春樹自身が描いた羊男のイラストまで作中に載っています。ソファーに腰を下ろした羊男の姿はどこかユーモラスで、デザイン的にも見事です。2021年に早稲田大学に開館した村上春樹ライブラリーでは、ギャラリーラウンジの壁画としてこのイラストが大きく描かれていました。
 羊男は他にも、短編「シドニーのグリーン・ストリート」や「図書館奇譚」、絵本『羊男のクリスマス』や『ふしぎな図書館』にも登場しています。羊の衣裳を着こんだ小柄な男、という初期の設定から、なんだか妖精的なファンタジー世界の住人となっていったようでもあります。2021年にユニクロが村上春樹作品をモチーフにしたTシャツコレクションを発売した時には、羊男のピンバッジなんてグッズまで売り出されました。――これは村上春樹の絵柄ではなく、絵本で羊男を描いた佐々木マキの絵柄のバッジでしたが。
 そして、「羊の衣裳」というキーワードを頭において『PEANUTS』を眺めると、やはり魅力的な絵が出てきました。1984年12月20日の作品で、その3日前から始まる、クラスでクリスマス劇を上演するというストーリーです。――マリア様の役をやりたかったペパーミント・パティでしたが、その役は親友のマーシーに決まってしまいました。自分は羊の役にされてしまい、その衣裳を着こんで練習に臨んでいる、なんて設定です。


1・マーシー「その羊の衣裳、かわいいですね、先輩」
  ペパーミント・パティ「まったくね、マーシー。まったくだわ!」
2・マーシー「私、昨日の夜は夜更かししてセリフを全部覚えました」
  ペパーミント・パティ「セリフを全部、ねえ」 
3・マーシー「それじゃ、失礼して……私の登場シーンをみんなと練習してきます」
4・ペパーミント・パティ「メエー!」

https://www.gocomics.com/peanuts/1984/12/20

 この、羊の衣裳を着こんでふてくされているペパーミント・パティの絵が、なんともかわいらしいんですが……翌12月21の作品では羊の衣裳のまま座り込んでいる姿が描かれていて、僕としては村上春樹の羊男のイラストを思い出さずにはいられませんでした。(https://www.gocomics.com/peanuts/1984/12/21
 こうなると、やはり想像が膨らみます。――『PEANUTS』の好きな村上春樹が、この羊役のペパーミント・パティの絵に影響を受けて羊男のイラストを描いたんじゃないでしょうか?
 ところが、そうじゃないんです。逆なんです。
 面白いことに、この「羊の衣裳」という共通点については、シュルツよりハルキの方が先でした。なにしろ『羊をめぐる冒険』が発表されたのは1982年、ペパーミント・パティが羊の衣裳を着るより2年ばかり前のことだったんです。
 となると、逆に「シュルツの方がハルキの影響を受けたのだろうか?」なんて仮説も思い浮かびます。この空中線を辿るため、僕は取材を敢行しました。まあ取材といっても、シュルツさんは2000年にお亡くなりになったので、アメリカのカリフォルニアにある、シュルツと『PEANUTS』関連の資料アーカイブであるシュルツ・ミュージアムの学芸員さんにTwitterを通して質問してみたってことなんですけれど。
 ありがたいことに、アメリカでは毎年「#AskACuratorDay」という日が制定されているようです。和訳するなら「学芸員さんに質問の日」。Twitterで質問にハッシュタグをつけて書き込むだけで、学芸員さんから回答がもらえるかもしれない、という企画です。
 僕が書き込んだのは、「シュルツさんは村上春樹を読んでいたでしょうか?」という質問でした。『ピーナッツ全集』と『羊をめぐる冒険』を並べて撮影した画像を添えて、羊の衣裳の絵という点が共通しているからには何か関係があるんだろうかと尋ねてみたわけです。
https://twitter.com/kurobey/status/1437938813024694277?s=20
 そして幸運にも、シュルツ・ミュージアムの学芸員、ベンジャミン・クラークさんから回答をいただけました。まとめると「チャールズ・シュルツは旺盛な読書家でした。ミュージアムで展示しているのはその蔵書ほんの一部だけですが、村上春樹の本はありません。『羊をめぐる冒険』の英訳が出たのは1989年ですから、おそらくは『偉大な頭脳は似たことを考える』という例の一つでしょう」とのことで――残念ながら、僕の仮説は賛同を得られなかったようです。
https://twitter.com/BLClark/status/1438169170433110017?s=20
https://twitter.com/BLClark/status/1438169171674615808?s=20)

 しかし、です。我ながら諦めの悪いことを書きますが――英訳が出ていなくたって、シュルツが『羊をめぐる冒険』を見ていた可能性はあります。アメリカでは日本の単行本や文芸誌だって流通してますし、たとえ日本語が読めなくたって羊男のイラストを目にすることはできるんです。いささか強引かもしれませんが、可能性はゼロじゃないです。『海辺のカフカ』に出てきた表現を借りて言うなら、「仮説は仮説としてまだ機能している」わけです。
 作品から様々な空想を広げるのが読者の自由であるように、作品と作品の間に幻の空中線を思い描く自由もあるはずです。僕の中には「村上春樹が『PEANUTS』から影響を受けていたように、『PEANUTS』も村上春樹からの影響を受けていたら素敵だなー」って思いがありますし、そう空想した方が楽しくなります。――もちろん、いくら諦めの悪い僕でも、クラークさんのツイートの方が妥当だろうとは分かってるんですけれど。
 そしてクラークさんのツイートには、まるで『PEANUTS』に出てくる名言のような素敵な言葉がありました。「great minds thinking alike.」――僕は「偉大な頭脳は似たことを考える」と訳してみましたが、あるいは英語の慣用句なんでしょうか。そして英語の慣用句といえば、村上春樹エッセイで何度もネタになっていますよね。
 英語的慣用句やメタファー、名言や箴言や教訓となると、ハルキ作品と『PEANUTS』の共通点は枚挙に暇がありません。例えば「逆境こそ人を成熟させる」とか「惜しまず与える者は常に与えられる者である」とか「それがどうした、そういうものだ」といったフレーズが、どちらの作品に出てきたか正確に言い当てられる人っているでしょうか? どちらにも出てきそうですし、実際に出てきますので、ご興味ある方は探してみてください。

 出てくる言葉は似ていても、それぞれの作品が違った感興を与えてくれます。「偉大な頭脳は似たことを考える」としても、その表現の形は無限に広がっています。だから楽しいと思うんですよね。他の共通点を探してみるも一興だし、見つけた共通点から幻の空中線や幻の三角形を描いてみるのも楽しいものです。
 世間を見回すと、「村上春樹は難解」とか「意味が分からない」とかいう人が一定割合でいます。同様に、『PEANUTS』とかスヌーピーの名言とかいうと「深い」とか「哲学的」って言葉で済ませちゃう人も結構います。関連本とか雑誌の特集ではそういうまとめ方をしていることも多いです。
 素直にそう感じる人もいるでしょうし、それはそれで間違ってはいないのでしょう。でもそういう定番のまとめ方から一歩踏み出して、複数の作品を見比べてみるともっと面白くなると思うんです。まずは二つの点を結ぶ線を意識したり、さらに自分も含めて三角形を意識したりすれば、より立体的に楽しむことができるんじゃないでしょうか。『PEANUTS』と村上春樹作品というのは、そのためのもってこいの素材だと思います。
 まだまだ書きたいネタはありますし、最新長編の『街とその不確かな壁』についても言及したいとこですが――今回もついつい長くなっちゃいました。まずは幻の空中線式読書法の提案ということで、この稿をしめくくっておこうと思います。

お気に召したらぜひよろしく。 励みになります……というか、お一人でもおられるうちは続けようと思ってます。