展覧会 | 石川九楊展に震える
上野の森美術館で、前半〜後半と2部構成で開催中の、石川九楊大全。今年に入ってからずっと楽しみにしていました。
・6月に前期「古典篇:遠くまで行くんだ」
・先週に後期「状況篇:言葉は雨のように降りそそいだ」両展とも大変楽しませて頂きました。
初公開作品を含む石川九楊の全軌跡という大展示で、相当のボリューム。写真撮影が不可だったので、作品画像はありませんが、手持ちのものと宝物も添えて。
前期:古典篇 「遠くまで行くんだ」
前期の「古典篇」は、なるほど本当に遠くまで連れて行って頂いた気がします。古典とともに歩まれた創作が入り口から最後まで。藤壺も紫の上も、登場人物が独特の表現で語られており、書という形に変えて、古典文学展を見ているような感じでした。
源氏物語は、長い源氏の生き様をエネルギッシュに説明してもらっているよう。文字として解読する事は難しい分、その一枚の紙の中に何を見るか。作者が紙と対峙した古典の表現を、受け手である私達がどう感じるのか、優しく解釈されているようでもあり、一瞬で挑まれているようでもあり。
後期:状況篇「言葉は雨のように降りそそいだ」
後期の「状況篇」は、物語ではなく”生きる”という意味を突きつけられたような展示でありました。
上野に向かう電車の中で、ふと改めて読み返してみようと持参した本が、フランクルの「夜と霧」(みすず書房)。そうです。最も人生を左右した書籍としてアメリカで心理学分野で唯一トップ10に入る名著です。
なぜその日この本を手にしたのかもわからないのですが、この本を読みつつ展示室に入ったら、まるで覆い被さるような書に、問いかけに、心震えた瞬間で、まさに後期のタイトル通り”降り注いだ”。
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」-マルコ伝
こんなタイトルで小さめの40点ほどの作品が壁一面に並ぶ。石川九楊氏がよく話されている”筆触”というものをダイレクトに感じられたのです。
筆で紙を引っ掻いて傷つけながら書く書。
心の表し方は、傷つくものなのかもしれない。傷つかずに表せる事なんて無いのかもしれない、とこの後期の「状況篇」で私が強く感じた事です。
石川氏はおっしゃいます。「闇を書くのに、真っ白の紙には書かない」。展示物の中でも、テーマによっては最初に紙を墨で埋めてから書かれているものも多く、確かにそもそも白の上には成り立たない作品群でした。
展示内の映像でも、「影と光、黒と白の関係性は彫刻のよう」と話されていて、世界はすべて陰と陽なのだなあと。
もちろん書の大ファンでありながら、私は石川九楊の文章も好きです。
後期では、書籍の手書き原文や、講演スピーチの原文なども展示してあり、ここでしか読むことができない原稿が、印刷フォントのように綺麗に書かれています。あの書を書く方とはかなり真逆のような字体に驚きます。
特に面白かったのは、石川氏が日本語について語っていた原稿です。漢字に対して、ひらがなとカタカナというかな文字が2種類あるユニークな言語文化がこの小さな島で成り立ち、独自に完成されてきた経緯など。
母語というものは、生まれて否応無しに備わるものだから、私たちは何も考える事なく、コミュニケーションツールとして使っています。しかしこうして文字と共に生きてこられた方の解く言語の話は、改めて大事に話し、聞き、考えてみようと思う良い機会です。
「3つの文体がわからないと、日本語ってわからないから・・」と、外国人の知り合いは皆嘆きます。本当に難しい言語だと思います。
日本語を使いながら、異国で暮らす外国籍の方って尊敬します、はい。
*最も、この”外国人”という言い方。石川氏のおっしゃるところ、これは日本人の特徴的な言い方であるらしく。
日本人は、カタカナで表す国の人を=外国人と。なぜか中国人や韓国人のことを”外国人”とはあまり括らない。なるほど、言われてみたらそうですね。
そして展示会には多くの外国の方がいらしていました。欧米の方から見たら、石川九楊の作品はどう見えるのでしょう。私たちはなんとか読もうとしてしまうけれど、彼らはおそらく最初から形として何かを感じるのだろうと思います。
きっとここに「読めるはずだ」という概念が、何か感じることを少し邪魔をしているようにも思えます。
同じ漢字を使う国である中国の方にはやはりどう見えるのかも気になるところでした。
一日一書
二玄社から出版された「一日一書」という書籍。2001年1月〜12月までの毎日、「京都新聞」の朝刊で掲載されたコラムをまとめたもの。使用されている図版はご本人が編集された、24巻刊「書の宇宙」(二玄社)からの引用のようです。
主に中国の書を石川さんが選び編集され、各字を解説されています。
今回展示会では、この第2版、3版、も販売されていました。私は持っているこちらは第1版。一日一書なので、365日の日づけで字が出てきて、その字の判読や、書きぶりなどを楽しめる本です。
今や、毎朝一番に「さて今日は何の字かな〜」と見るのがルーティーンになっていて目覚めが楽しいのです。
少し前、夢の中で大きな暖簾のような布に書かれた文字が出てきて、その情景が気になるなあ、と思い、その朝本を開くと、この日の字は「簾」でした。ちょっとうふふ・・。
そんな毎朝の楽しみのこの本。いつだったか、通りかかった道端で古本処分市をやっていて、隅っこの方で¥200で売られていました。
石川九楊の本がこんな金額で売られちゃうの??とショック。
そしてまさかこの夏に大展覧会が開催される方の書籍であることを、この売主は知らなかったのでしょう。
硯に向きあう石川九楊氏
この後期を見に行ったのは、前からこの日!と予定していたのではなく、先日の梅雨明け前の雨模様の日。
なんとなく今日行こう、と思い上野に出かけましたら、展示会に石川先生ご本人がふらりと来られた日で、目の前で”石川九楊”とサインして頂いた!
同じくサインしていただいた何人かの方と、墨が乾くのを待ちながらサインを見せ合うも、全員違う。
静かに墨を擦り、細く美しい中国筆の先を整え、一人ずつ違うサインを書かれた。現在もお元気で精力的に活動していらっしゃる石川九楊先生。
先生のパワフルなお姿に、自分の体力や気力の衰えを嘆く自分を反省するばかりです。
しとしとと静かな雨の上野で、ものすごい熱量の叫びに囲まれた1日でした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?