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佐々木朗希投手の降板は憲法9条の弊害

もう一週間も前のことだが、ロッテ・佐々木投手の2試合連続完全試合目前での降板がやはり納得できない。

賛成派の意見としては、目の前の記録や勝利よりも長く活躍できる方がよい、というのが代表的だろう。その次には、試合自体が0-0だったから、個人の記録よりもチームの勝利を優先すべき、ということろか。

いや、私だって、普通の記録なら文句はない。例えば、あと1勝したら最多勝だとか、あと1イニングをゼロに抑えたら最優秀防御率とかだったら、賛成派の意見も納得できる。そういう記録や個人タイトルなら、また来年とればいい。

しかし、2試合連続完全試合というのは尋常な記録ではない。来年どころか、恐らくは一生かかってもそんなチャンスはない。そして達成していたら、それこそ生涯の勲章になるはずだ。注目度も格段に上がるし、60年後なり70年後なり、彼がいつか亡くなるときにも言われたはずだ(「史上唯一の2試合連続完全試合を達成した佐々木朗希さんが昨夜・・・」)。

そんなチャンスを、あと1イニング、球数にして10球やそこらのために潰してしまってるのだ。なんということか。

と言いながら、気づいてしまった。

私が賛成派に苛立ちに近い違和感を覚えるのは、これが平時と有事の区別ができない議論だからなのだ。

最多勝や防御率など、毎年誰かは獲得するタイトルは、言わば平時の記録である。これに対して2試合連続完全試合は、これまで誰も達成したことのない、これからも誰も達成できないかもしれない、異常と言っていい記録である。つまり有事である。

100球という球数や、無理をさせない方針、チームの勝利を優先する方針などは、すべて平時の決め事である。まさか2試合連続完全試合達成目前の状況を最初に想定していたわけではないだろう。平時の決め事を有事になっても守っていたということなのである。

平時の方針を有事にあっても変えられないというのは、我が国の外交・安全保障政策と同じである。というより、有事であっても「大した事ではない」と思い込む、正常性バイアスのなせる業かもしれない。

「2試合連続完全試合も個人の記録であって最多勝や防御率と同じなのだから今までの方針でよい」という判断と、「ロシアがウクライナに侵攻してもヨーロッパでの出来事であって日本が直接攻められたわけでないから今までの政策でよい」とう判断は、本質的には同じことだろう。

平時も有事も同じいるというのは、もしかしたら「冷静な対応」とか「大人の対応」と思っているのかもしれない。とんでもない誤解で、クールに決めたつもりかもしれないが、全くナンセンスであり、有害である。状況が違うのに、同じ対応で良しとするのは自滅の道である。

平時も有事も同じように「戦わないことが大事」という発想は、言ってしまえば憲法9条に由来する。憲法を改正せず有事への対応を考えないようにしているから、こういうことになる。想像力の欠如である。そんなことだから佐々木投手も降板してしまうのである。

きっかけが野球の選手起用だから、大仰な話をしているように感じるかもしれない。もちろん、野球の記録と外交や安全保障政策では、事の重大さは違う。が、日本を覆っている思想や発想という意味では、事の大小はない。根っこは同じはずである。

こんなことをつらつら考えてみても、やはり憲法改正が日本の喫緊の課題なのである。

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