見出し画像

その後の人生の行方を決めた”街”に住むという20歳の選択|住宅への価値観の変遷 2

幼少期の原体験が僕の住居への価値基準を作り、20代の生き方に影響も与えた。この時期の暮らしを通してまた新たな価値観が生まれた。

一児の父となり家族が安心して健康に暮らせる環境を求め、いくつかの選択肢の中から注文住宅を選ぶことになった。その結論に行き着いた考えを整理する。

20歳、実家暮らしをやめる選択

離れる事でその良さに気づくこともある。なんて言うけど、住み始めてから離れるまでずっと好きだった街がある。
僕が20歳になってから約15年、東京都の吉祥寺という街に暮らしていた。
この街に住むと決めたのは大学1年の冬。友人宅から吉祥寺駅に向かう道すがら、バスの窓から見た吉祥寺通りの夜景がなぜかグッときた。
カーブした狭い道には渋滞した車のブレーキランプ。街路樹の間からは路面店のオレンジ色の明かりが店内の様子を映し出していた。駅周辺は細い道も多く雑居ビルや小洒落た店が混ぜ合わさって、うまく説明ができないがゴチャゴチャした景観が僕好みだったのかもしれない。今でも吉祥寺の夜のイメージはオレンジ色だ。

画像1

写真:井の頭通り(2010年)

大学3年目の春から木造アパートの1Rを借りてこの街で一人暮らしを開始した。一人暮らしを始めた動機は幼い頃から個人の部屋が欲しかったのと、ある日の父の一言だった。
「誰の金で食ってると思ってるのか。」
その言葉に反抗したつもりはないけど、「それなら自分で食べていく方が良いかも。」というのが僕の中の答えだった。

当時テレビで見たオーストラリアでは18歳が法律上の成人で、子どもは家を出て独立するという情報。なら僕にもできるんじゃないか、なんて自身の選択と似たような社会の存在を知って安心した。

5月の連休に不動産屋をあたりその足で父に保証人になってもらうことを了承してもらった。翌週には実家を離れていた。
実家からの往復4時間の通学が20日間。時給千円のアルバイトが見つかれば、6万円代の部屋は難なく借りられる。飲食店に勤められれば食費も浮くだろうし、1日6時間も働けば生きていくには十分だ。という目論見だった。

それまで実家というものは自身の生活が無条件に保証される場所と思っていたが、人が食べていくにはお金がかかるし、そのお金を稼いでくれる人がいなければ家族は安定して暮らしてはいけない。自分は恵まれていた。(学費も出してもらってるし。)当たり前のことを気付かされた。
ただ、それでも自身が稼いだお金で誰にも気兼ねなく暮らせる住居があった方がきっと僕には合っている。この時求めたのはそれだけのことだった。一人であれば誰にも気を使わせないし、自分も気を使わない。全ての時間を自由に使える。幼少期の体験からか、そんな暮らしを求めていた。

こうして見切り発車的に始めた一人暮らしで自分一人で食べていく大変さを実感し、同時に家族5人の生活を支える父の偉大さを知った。

画像 019

住む街の選択がその後の生き方につながった

僕の借りた部屋は全10戸のアパートの一階の4号室。6畳の部屋に一間の押し入れ。狭いユニットバスと作業台のないキッチン。建物の南側、唯一の窓のすぐ向かいにはデカいマンションがそびえ立ち、完璧な日射遮蔽で夏でも涼しかった。上階の住人の足音がひどく天井ドンは日常茶飯事。だが、独立して初めて住む住居にしてはそれで十分。

この時は、吉祥寺で一人暮らしをすることが目的で、住環境は割とどうでもよかった。家族がいる今とは正反対の考えだ。
学校の講義以外はアルバイトや外食が中心で街の中にいることを日常としていた。外に求めるものが多い分、住居に求めることが少なかったのだろうと思う。

吉祥寺に住むことで、一人暮らしの目的の大半は達成されていた。特に目指すべきものもなく、生活に困ることもないから就活も必死になれなかった。卒業後、氷河期世代ということもあり無事にフリーターになった。
祖母が存命だったころに、アルバイトで生計を立てることについて「今はそれでいいかもしれないけど…」とよく忠告された事を思い出した。

ただ、この暮らしをしたことでしか体験できないことは確かにあった。街に集まる人は明らかに地元の人とは違った。やはり東京という場所柄か自分も含めて外から人が集まってくる。

ミュージシャン(志望)、舞台俳優、映像クリエイター(就活中)、グラフィックデザイナー(薬中)、美大生、東大生(官僚)、料理人、バーテンダー等。複数の飲食店でアルバイトを掛け持ちしていたせいか、同僚や客にクリエイティブ(?)を生業にする人が何人かいた。僕も昔から自分の手で何かを作ることが好きだったし、彼らを見ていたら自分がやりたいことを仕事にしようと思った。
人は他人から少なからず影響を受けて生きていくが、僕は他人から影響されやすいのだと自覚した。
全員が参考になるわけではなかったが、少し年上の彼らの生き方を横目で見ることができたから、その後のいろいろな可能性がある中で自身が納得できる選択をしてこれたに違いない。
20歳でした決断に間違いはなく、後悔することは何一つ無い。

僕は住んだ街の空気や関わる人から様々な影響を受けた。他人から刺激を求めたいのであれば住む土地選びは重要だ。その時は複数のコミュニティに所属するのが良いと思う。そこには違った価値観の人がいて、自分が想像できない人生を送った人がいる。地元に留まり続けていたら無かった出会いがあった。
だからもし、僕の息子が希望するならぜひ外に行かせてやりたいと思う。

この後、僕はこの街の中で二度住居を変え、希望する業界で仕事を見つけ、しばらくして結婚した。そして住み始めてから16年後に悲しみを後に街を出た。

今日はここまで。
住宅への価値観の変遷 3 へ続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?