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家族の暮らしにとって理想の”環境”を探す旅のはじまり|住宅への価値観の変遷 3

独り身のときは自分ひとりが生きていければよかった。家族が増え、僕の住居の選び方も変わってきた。家族にとっての理想の居住環境を探し始める。

一児の父となり家族が安心して健康に暮らせる環境を求め、いくつかの選択肢の中から注文住宅を選ぶことになった。その結論に行き着いた考えを整理する。

家族のための住居の選択

僕が京都市へ移り住んで3年が過ぎた。
新居は東京から限られた時間で探す必要があったので、じっくりと物件を選ぶことはできなかった。
不動産サイトから目ぼしい物件をピックアップし、京都に訪れ一日で内覧を済ませ、気に入った物件に対しその場で仮契約の申込みを行った。

慌ただしい中で選んだ現在の我が家は、最寄り駅から徒歩5分のマンション最上階で家賃は手頃。この階には3世帯が住まうが、吹き抜けを間に挟んでいるのでお隣と接している面積はごくわずか。
リビング東側が全面大開口で京都市の東側を一望できる。
山から昇る朝日を毎日拝み、京都タワーのライトアップや夏には大文字山の送り火を労せずに眺めることができるのだ。

我ながら素晴らしい住居を見つけ出した。
引越し当日に初めて部屋に訪れる妻の反応が楽しみだったし、実家を出てから引っ越す度に住居をアップグレードし続けた自分を誇らしく思っていた。
幼少期に暮らしていたところと比較すると、居住環境の水準は格段に上がっているはず。

2年のフリーター期間を経て就職した際に借りた部屋は、周囲を建物に囲まれてジメジメとカビ臭かった。それでも当時は寝に帰るだけの住居に対して多くを求めることは無かった。自分の好きな街に暮らし、最寄り駅まで徒歩10分以内で通勤できれば十分だった。
妻となる女性と同棲を始めたことで、次は自分以外の誰かのためにも住居を選ぶ必要が出てきた。
日中僕より長い時間その部屋に滞在する彼女のために、日当たりのある明るい部屋を求めた。部屋の明るさは時に人の精神面・肉体面の健康状態にストレスを与えることを実感したからだ。
ある日同じマンションの最上階角部屋が空いたのを見て、すぐに管理会社へ連絡し新たな住居を契約した。そして数年後その部屋で彼女と結婚した。

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夫婦、親子、ルームメイト、居候等、ライフステージが変化することで自分以外の誰かと住居を構えることは珍しくない。その場合はパートナーとの暮らしも想像して住居を選ぶ必要がある。
安全、健康、快適さ等を意識した住まいの選択は、独身時代は後回しにしていた。今は家族のために理想の居住環境を提供したいと思うが、それを備えた賃貸住宅選びは難易度が高く、そこにかける時間と根気は僕には無い。
自分で素晴らしいと思っていた今のマンションも、「家族のための住まい」という価値基準で見てみれば、日当たりと窓からの景色以外良いところはあまりなかった。日当たりに至っては、夏の直射日光のせいでエアコンが効かない事もあった。住居に関する知識の無さを露呈した選択だった。

平成31年4月末。元号が令和に変わる直前に長男が生まれた。
この新しい家族のために、僕はどんな住居を選ぶべきなのか。彼の20年後を見据えた住まいづくりをしないといけない。

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悲しい記憶は引っ越しで置いてこれるのだろうか

京都に来る直前。2017年7月に、僕たち夫婦にとって初めての子どもの死亡届を提出した。
法律上妊娠12週を超えた胎児が死亡した時は、死産として扱われ、役所に死亡届を出し火葬を行わなければならない。
まだ名前もなく、性別すら分かる前、およそ3ヶ月の間妻のお腹の中で確かに生きていた。その我が子のために初めてしてあげることがこれなのか。と、気持ちの整理ができないまま、葬儀屋さんの言われるままに手続きを進めた。

「心音が聞こえない。」
いつもの定期検診のはずだった。直前には里帰り出産をするかどうかの計画も立て始めていた。子供を迎えるための部屋も契約した。そんなものが一瞬で吹き飛ぶように突如として宣告されたのだ。
特に妻は混乱していただろうけど、気丈に振る舞った。赤ちゃんが亡くなった事を伝えられたその場で胎児を強制的に死産させるための説明を受け、紹介状を書いてもらうため入院先の病院を決めなければいけなかった。
この世の中ではこんなに悲しい事が起こるのか。なぜ僕たちにこんなことが起きるのか。クリニックの待合室で僕たちは人目をはばからず泣いた。

その日の記憶は曖昧で、なんとか妻を支えないといけない一心で一時も離れないようにしていた。 
実家の両親には遅い時間にlineの短いメッセージで事実のみを伝えた。翌日だったか母から着信があり、電話越しにこの後の予定を淡々と伝えた。
全ての伝達事項を伝えた後、母から「赤ちゃん、かわいそうだったね。」と一言伝えられると、それまで抑えていた涙がボロボロと流れてきた。妻の前では泣くのは我慢しようと決めていたのに、咽ぶように泣いた。

吉祥寺は、僕が二十歳で実家を出た後15年以上も暮らした街だ。この暮らしの中で妻と同棲を始め結婚した。多くの良い思い出が詰まった街だった。
会えることのできなかった我が子のために、僕はぬいぐるみを作り、妻は手紙を書き、小さな頭に合うように帽子を作った。妻の入院まで数日時間があったので区切りをつける儀式の意味もあったかもしれない。引っ越しの準備があらかた済み積まれたダンボールの前で、3人の最後の時間を過ごした。
新婚生活を過ごしたこの賃貸のマンションも、悲しい思い出が残る場所となってしまった。

気持ちを整理する上では転居が予定されてたのは不幸中の幸いだったのかもしれないが、引っ越したからと言ってスッキリできるものではない。妻はその後もしばらく街中での子どもの泣き声を避け続けた。
今後自分の家を持ってしまうと、おいそれと引っ越しして切り替えようなんてわけにはいかない。多くを受け入れて、その場に留まらないといけないこともあるかも知れない。それくらいの覚悟を持って住宅を購入しようと考えている。
ただ何か悲しいことが起きた時、その思い出から遠ざかり、気持ちを切り替える意味での引っ越しは選択の一つとしてはありだと思う。

このことは3年経った今でもまだ夫婦で話すことはできない。思い出せば今でも涙が流れてくる。まだ全てを書き出すことは出来ないけど、当時の感情の整理も含めてここに書かせてもらった。




今日はここまで。
住宅への価値観の変遷 4 へ続く)

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