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飲みかけのラテに魅せられて - Kurasu Small Talk #3

Kurasu Small Talk
Kurasuメンバーたちのささやかな日常をお届けするシリーズ。他愛のない会話の中に垣間見えるコーヒーの魅力や、そこから生まれるCoffee Tipsなどをお届けします。

とある日の訪問

ある晴れた日、Kurasu Kyoto Standに立ち寄りました。カウンターの向こうには珍しくバリスタのRunatsuが立っていました。

いつものようにラテを頼んで、机に腰を掛けて待つ時間。Kyoto Standがあるのは、JR京都駅のすぐ近く。新幹線に乗る前のひとときをここで過ごすことが好きです。多様な言葉で交わされるお客さんの話し声、バリスタのスチーミング音が、まるで異国にいるかのような高揚感を与えてくれます。

美しい雑音が気晴らしになるというか、コーヒーショップを包み込む環境音への反作用として、沈思黙考の時間にインスピレーションが生まれるというか。すべての音が調和して、一つの心地よいBGMとなって耳に届きます。

小さなハート

Runatsuより、「Jaimeのラテラージです〜」との声掛け。

カウンターにラテを取りにいくと、なんと、カップの上にはツッコミを入れたくなるほど小さなハートが描かれていました。英語で例えるなら「Small」ではなく「Tiny」に近い大きさ。

何か意図を感じるラテアート

なじみのバリスタさんのちょっとした遊び心なのか、いじわるなのか。「そこに愛はあるんかい!」と心の中でツッコミを入れたくなりますが、愛情はラテアートの大きさに比例するわけではないはず。

なぜならラテアートで小さなハートを描くのは、むしろ技術的に難しいのです。ミルクを高い位置から注ぎ、エスプレッソとしっかり混ぜる必要があります。

そう考えながら味わったこの小さなハート。最後の一口まで「ミルクとエスプレッソ」ではなく「ラテ」として美味しかったです。きっと高い技術に基づく、愛のあるいたずらだったのでしょう。

ラテアートにまつわる消費文化

珍しい小さなハートのラテを写真で撮りながら、ふと「ラテの写真を撮る」行為について考察したくなりました。

バリスタにとって、ラテアートを喜んでもらえるととても嬉しいものです。味だけでなく「アート」の部分もホスピタリティの一部と捉えることもできるでしょう。お客さんがラテアートを写真に収めている姿を見ると、心が暖かくなります。

注ぐ「量」「高さ(位置)」「角度」の影響を受けるラテアート

しかし、ラテは時間が経つと味が変わってしまう飲み物。アートを存分に楽しんでほしいと思う一方で、できたてを早く味わってもらいたいという気持ちもあります。ラテは、時間が経つとミルクとエスプレッソが分離したり、フォームの質感が落ちたりすることがあります。楽しみ方は人それぞれですが、リアリティではなくリアルを、つまり「飲み物」としてのラテを味わいたい、そんなふうにも思います。

一口飲んだラテの美しさ

しかし実のところ「コーヒー」は、映画やドラマ、写真など至るところでコンテンツとして扱われています。コーヒーにとって「味」は一つの重要な前提です。一方でコンテンツ、ある種のアートとして楽しめる側面も、コーヒーの本質なのかもしれません。

だからこそ、新たな視点からラテアートの楽しみ方を提案してみたいと思います。中の人のマイブーム、「一口飲んだラテ」の写真撮影です。

一口飲んだ後のラテには、できたてのラテとはまた違った魅力があります。「一口飲んだ」という事実、そこにある不完全なイメージが、物語を語りかけてきます。

撮りためている「一口飲んだラテシリーズ」

一口飲んだラテの写真だけが持つコンテクスト。

一口飲むと、その人がカップのどの方向からラテを飲んだかがわかります。そして、まるで絵具に水を一滴落として広がるように、ラテアートがラテを口に含んだ方向に揺れていく姿も美しいのです。

たいへんGeek(オタク)なハマり方かもしれません。しかし、スペシャルティコーヒーの持つ嗜好性とは、こういう「Geekさ」にこそあるような……。

こんなふうに揺蕩う思索を、いつも暖かく美味しいコーヒーとともに包んでくれるKyoto Stand。街なかのコーヒースタンドというものは、まさにコンクリートジャングルの中のオアシスですね。

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