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いま、もう一度学べるとしたら。

先日、オンラインサークル「くらしの学校」でも少し綴ったのですが、今日のコラムは「もう一度学べるとしたら」がテーマです。

私が「学び」という言葉に敏感というか、執着しているのは、自分自身に「学びやすい環境にいるときにしっかり学んでこなかった」という負い目のようなものがあるからです。
受験シーズン本番の今の季節になると、いつも心がちくちく痛んで、「ああ、あの頃もっとちゃんと学んでいたら…」と思ってしまいます。

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もちろん、大学ではそれなりに勉強し、それなりな卒業論文も書いたのですが、「自ら学び取ったぜ!」という手ごたえのようなものはあまりありませんでした。「これがやりたい!」という形で学部も選ばなかったし…卒論のテーマも教授に半強制的に決められたし…。結果としてそれなりな手ごたえしか手元に残らなかった。もう一度やり直せるとしたら、もっと頑張ったり、もっと我を通してやるのに!と思ってしまうのです。

だから、いま娘たちが大学でこんな授業があるよ、とか、こういうゼミはどうだろう、とか話してくれるのが本当に刺激的で、いつも「いいなあいいなあ、高等教育機関いいなあ」とうらやましがっています。先日は「レポートが辛い」という娘に「レポートいいなあ」と言って「良くない!」と怒られてしまいましたが…。

これを読んでくださっている皆さんはどんな風に学びの手ごたえを得たのか、あるいは得ているのか…そんなところにもすごく興味があります。

皆さん、「もう一度学べるとしたら」どんな学問の扉をたたきますか?

◉学びたかったけど「二次試験で数学がいるから」という理由で断念した人(私です)、

「それ就職に不利だよ」と言われて断念した人。

あるいは、そもそもどこで学んでいいか分からず断念した人…いらっしゃるのではないでしょうか。

もう一度好きな学問を、数学がいるとかそういうのは一切なし!で、自分が万能で、かつなんでも学べる環境にあると仮定したら。

何を学びたいですか?

私は断然、「倫理」「哲学」です。
高校のときの倫理の授業では、ギリシャやローマのいろんな「…テレス」みたいな名前を丸暗記したことくらいしか記憶がなく、ただただつまらなかった、という印象しかありませんが(いま振り返ると、高校3年生の後半に先生もやっつけで授業をしてた気もする)、なんであの時もっと真剣に学んでおかなかったんだろう、という後悔が一番大きいのが、倫理なのです。

人が、なぜ生きるのか。という根源的な問いに対して、古代ギリシャから現代までたくさんの人たちが答えを出しては壊し、また答えを出しては批判して、ということを繰り返していますよね。その果てのない流れを学んでみたいなあと思うのです。自分で研究したいというよりも、哲学者のいろんな答えを学び、照らし合わせてみたい、という欲求のほうが強いかもしれません。


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また、特に気になっているのが「仏教哲学」で、これは結婚していろんな宗派の法事に出かけることになり、宗派によって大切にしていることばや作法などが違うことに驚き(実家では父方も母方も同じ宗派だった)、おもしろっ!と思ったのがきっかけです。苦行を良しとするものから、念仏を唱えるだけで誰でも極楽に行ける、というものまで、ものすごくバラエティに富んでいるのに、「仏教」というひと言で片付けられているのがとても興味深い!

…と、書きながら思ったのですが、倫理や哲学というよりも「信仰」に興味があるのかもしれないですね。画像の本『ほとけの履歴書』は哲学ではなく「仏像」がテーマなのですが、仏教の起源から日本ならではの広がり方なども書いてあるのでとても面白いです(仏像の作り方も書いてあります!)。


そして、そこから派生して興味があるのが心理学。なぜそんな行動をとってしまうのか?なぜそこから抜け出せないのか?そんな、人の心の動きにとても興味があります(これも「信仰」に結びついているかも)。
スタッフからはよく「人のことじろじろ見すぎ!」とか「心の声が漏れちゃってるよ!」とか注意されるのですが、ひとりの人を観察して、なんでそんなことしちゃうんだろう!と驚いたりするのが好きなんですよね…。そこをもっと掘り下げて研究してみたいなあ、というのも、夢のひとつです。


こうして考えると、自分が学びたいことって職能には直結しにくく、いわゆる「そんなことやってなんの役に立つの?」と言われちゃいそうな分野かもしれません。でも、そういうものの方が興味を引くんですよね。役に立たないと思われつつも脈々と学び継がれていたわけで、そこにはやっぱり理由があると思うのです。


しかし一方で、「学校で学んだこと以外に、社会にはすごい学びがある」ということも体験していて、それがなければ「もう一度学べるとしたら」という思考には至らなかったのでは、とも思います。

「学び」はくらしアトリエのテーマのひとつでもあり、過去には作り手から直接学ぶことで地域を知る、という目的の「くらしの学校」を開催したりしていました。

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学校の授業で学ぶこと以外にも、そこかしこに学びはある。

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例えば草木染めの体験を通して、例えば天然酵母のワークショップを通して、例えば公務員の方や農家の方にお話をうかがう「ふるさと勉強会」を通して。

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自らの生活に照らし合わせて学びを手にし、持ち帰って暮らしに還元してもらいたい。そんな切実な思いがありました。

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いわゆる「料理の先生」「ものづくり講師」といった専門職ではない、「その道の人」に直接教えを乞うという機会は当時ほとんどなく、すごく良い経験をスタッフ自身もさせてもらったなあ、と記憶しています。
お昼の「給食」では、授業で一緒に作った料理はもちろん、地域の加工グループさんやお惣菜屋さんなどにケータリングをお願いして、旬の食材を使った料理を用意していただいたりしました。大人になってからの「給食」は、単に食べるだけでなくそこにも「学び」がちゃんとあって、贅沢な時間だったなあ…。


こうして考えると、「くらしアトリエ」のNPO活動を通してさまざまな人に出会い、人の生きざま・関係性・自己実現の仕方…そんなものたちを肌で感じて、それが「哲学」や「信仰」に結びついているのかもしれないなあ、とも思う。

もし受験で猛勉強して違う大学に入っていたら、大学で精いっぱい学び切っていたら。今のように学びに貪欲になることはなかったのかもしれない。だからと言ってなんとなく過ごしてしまった年月を肯定することはできませんが、でも、「それも悪くなかったよ」と過去の自分にちょっと寄り添ってあげたいです。

ちなみに、私の卒業論文のテーマは「死後の世界」。こわっ!と思われるかもしれませんが、仏教が伝わる以前からなんとなーく人々に信仰されていた「人は死んだら海の向こうに行くんだぜ」という考えについて、地元に残る「精霊舟」という船を例にとって書きました。前述したとおり、教授に無理やり指定された卒論テーマだったのですが、いま考えると(「民俗学」という学問の面白さもあって)すごく楽しかったなあ。これが私の「信仰について学びたい」のスタート地点だったのかもしれません。

実際に本腰を入れて学びなおすかどうかはさておき、「学びたい」という気持ちとともにありたい。それが他愛もないことでも、壮大なテーマであっても、「生きる」と「学ぶ」は切り離せない。
いつも心にふつふつと「学びたい!」を持って暮らしたいものです!

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