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「やってる感」で生きてきた

先月受けたオンラインカウンセリングの振り返り。
担当のカウンセラーさんとは2年くらいの関係。それでもまだまだ自分が自分の言葉で話せているか違和感があったんだよね。
なんつーか、話しても話しても誰かが言ってた言葉の受け売りだったり、本で読んだ一節だったり、それをこう自分ふうに加工してるだけなんじゃないかっていう。
で、この前思ったのは「やってる感」で生きてきたんだなって。

カウンセリングをやってる感、話したいことを話している感、話を聞いている感、受け答えしている感、、、全てが「やってる感」で、こんな感じにしたらやってる感じ、できてる感じに見えるでしょ?っていう。
そうやって今までずっと生きてきたんだなって気づいたんだよなあ。

子どもらしさ感、学校に行って勉強してる感、部活してる感、友達と遊んでる感、恋愛してる感、働いてる感、社会人感、大人感、男らしさ感、、、お手本になるものがあって、それをコピー&ペーストしてるだけっていうか。command Cとcommand Pの繰り返しみたいな?そこには楽しいもうれしいも苦しいもつらいもなくて。
その果てにあるのはただただ虚しいだけ。生きてることが無意味。自殺したらまわりに迷惑かけるから死んでないだけ。

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政府が盛りたいときに使う常套句「スピード感」に代表されるような「やってる感」。バカな政治家、アホな国家、無能な内閣。そう思っていたけれど、自分自身が「やってる感」の権化みたいな存在だった。ひえ〜〜〜。

たぶん、僕以外にも「やってる感」で生きてる人がクソほどあふれているから、政治家も「やってる感」なんだろうなって。それをおかしいと微塵も思えない・気づけないんだろうなって。

「やってる感」で生きてきた。
もう30年以上も「やってる感」で生きてきた。
なにも残っていなかった。
この生き方から出たい。

まあ、ぼちぼちいってみよ〜

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高橋和巳さんの『消えたい』は、まさに消えたい僕にとって理解が深まる一冊だったよん


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