役に立とうとしなくても、キミはキミでいていいんだよ

つい先日の心理カウンセリングで起きた、自分のなかの「大人の私」と「子どものぼく」との対話。

「あれはなんだったんだろう」と今でもどこかであっけにとられている自分がいる。私のなかで起きたこと。けれど、私ではないような。

たぶん、30代である私というひとりの人間のなかに、大人の私と子どもの私がいて。それも同じくらいの対等な存在としてありありとそこにいた。
だから、「私」と言い切れない感覚があるんだと思う。

うまく伝えられるか分からないけれど、今アダルトチルドレンや機能不全家族で悩みながらも自分と向き合っている人(そこには私自身も含まれている)になにか届けられたらと思って書き残そうと思う。

***

【子どものぼく】
役割や務めを果たすことがぼくがぼくである理由。
そうしなければいけないんだ。
そうできなければ価値がない、意味がないんだよ。

【大人の私】
役割?務め?、、、そんなふうにキミが思っていたなんて。気づかなかったよ。、、、そっか、そうだったのか。
長いこと、ひとりで大変だったね、がんばってきたんだね。

ううん、全然大変じゃないよ。
だって、それがぼくにとってふつうなんだもの。当たり前なんだから。大変とかがんばったとかそんなんじゃないよ。
ぼくはぼくの役割を全うすることがぼくなんだ。ぼくはぼくの務めをやりきるのがぼくなんだ。

、、、役割や務めなんて、子どものキミが背負うものじゃないよ。、、、下ろしていい、やらなくていい、抱えなくていいんだよ。
子どものキミが、子どもであるキミがそんな、、、。それは大人がやるべきことで、子どものキミが、、、

そんなことしたら、ぼくはぼくでなくなっちゃうよ。
ぼくにはなにもなくなってしまうよ。

***

両親や家族を自分が支えなくちゃ!子どものぼくにとって、その場を円滑にする役割や調和をもたらす務めを果たすことが存在意義だった。
子どものぼくはそう思っていた。そう思わなければ、生きていけなかった。

あまりに突飛すぎる?確かにそうかもしれない。でもそれは大人の発想でしかない。
そんな役割や務めを子どもができるわけがない。そうなんだよ、できるわけがないんだ、だけれど、それでも幼い子どもは身を置いている環境が壊れかけているのを前にしたら「自分がどうにかしなきゃ!」って思い込んでしまうんだね。

子どものあなたが背負うものじゃない。
それは全くの正論だ、大人の正論だ。

けれど、「全然大変じゃないよ」という、あまりの平然とした言い分に、言葉を返すことが難しくなった。
それほどに彼にとって存在意義になっている役割や務め。それを背負わなくていいと言うことで、彼が彼である理由を奪ってしまう、なにもなくなってしまうことになると知ったから。それはつまり、彼の死を意味する。

***

と、カウンセラーが一言告げた。
「本当になにもなくなってしまうの?」

子どものぼくから役割や務めを取ってしまったら、なにもなくなってしまうのか?死んでしまうのか?
その問いが激しく大人の私を揺さぶった。

役割や務めを失ってしまうことの恐怖が「なにもなくなってしまう」と言わせたのだろう。
そう思って当然だ。それがこれまでのふつうだったんだから。彼が彼である理由とまで思い込んでいるのだから。それが失われたらこわくなるのは当然だ。

そんな彼に「子どものあなたが背負うものじゃない」なんて言ったところで、なんにもならない。こわがっている彼にそんな大人の正論をぶつけたところで全く歯が立たないことが瞬間的に分かってしまった。

***

キミがそこまで思っていたなんて分からなかったよ。
役割?務め?子供のキミが背負うものじゃない、下ろしていい、やらなくていい、そう大人の私は思っていた。

でも、私の想像を超えて、キミにとって役割や務めはなくてはならないものだったんだね。
それをもういいからやらなくていいだなんて、簡単に言えないよね。
言うのがはばかられるほど、その役割や務めがキミにとって欠かせないものだってその瞬間に分かったから。
もういいよって、やらなくていいよなんて、そんなこと軽々に言えないなって。

そんな私がなにをキミに言えるのか。
本当に本当に困った。
ビビった、おじつけづいた、ひるんだ、私には無理だと思いかけた。
それほどにキミに最もらしい大人の言葉など通じないから。

私はキミになにを言えるんだろう。
私はキミになんて言ってあげられるんだろう。
私はキミにどんな言葉をかけられるんだろう。

見つからない、分からない、もう無理かもしれない。。。

***

もう一度、カウンセラーの言葉を反芻する。
「本当になにもなくなってしまうの?」

、、、そんなことない。
なにもなくなってしまわない。
役割がなくたって「子どものぼく」は「子どものぼく」としてい続ける。
ちゃんと存在し続ける。
なくなってしまわない。


役割がなくても、キミはキミでいていいんだよ。
役に立とうとしなくたって、キミはキミでいられるんだよ。


それが伝えたかったんだな。
私がキミに言えたのは、やっとの思いで泣きじゃくりながらも伝えたのは
キミが存在理由だと思ってる役割や務めがなくたって、キミはキミでいられるんだよ」「キミが存在する理由はキミがただただ生きてることだよ」って。「私が見守るよ、私が保証するよ」って。
そういうメッセージ。

もだえながら、涙と鼻水をたらしながら、無様でダサくて、でも、正直に嘘偽りない言葉がどこからともなくこぼれていた。

***

大人になった私は子供のキミをずっとずっとどこかで見下していた。
下に見ていた、従えていた、私にイニシアチブがあるんだって。
でも、あのときになってやっと私はキミと対等な関係で向き合えた気がした。

それはとても震えるような体験だった。
対等に向き合うのがこんなにも難しかったのは、私がマウントをとっていないと不安で仕方がなかったからだと思う。
キミと対等に向き合えるような私がいなかった。
どこかでカッコつけて、偉ぶって、強がって、そうしてないといけないって自らを強いていたんだ。

役割や務めを果たさなければいけないと思っているキミと同じように、大人の私もまた「大人ならばかくあるべき」という囚われに縛られていたんだね。

だから、ずっとずっとキミのことが分からなかった。
ずっとずっとこわくて、キミのほうを向けなかった。

***

今回のことで、なにかがうまく回り出したとか解決したとか、そんな特別なことはなくて。

ただ、大人の私から子どものぼくへ、届く言葉・伝わるメッセージってどんなものがあるかなあって思ってみたりしている。

私はキミになにを言えるんだろう。
私はキミになんて言ってあげられるんだろう。
私はキミにどんな言葉をかけられるんだろう。


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