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言葉と、コトバと、ことば

ドイツ生活を始めてから1ヶ月が経ちました。
うわあああと頭を抱えることも、異国の地なのにほっとする瞬間があったり、毎日が新しい日々を過ごしています。

私がドイツに来てから使う言語は、母国語の日本語、英語、ドイツ語。
ドイツ語に関しては絶賛勉強中なので、日常生活で使う比率は英語がほとんどを占めています。私が通う、フランクフルトの音楽大学はドイツの中でも必修授業を大学院生にも多く課すことで有名だと入学してから知りました。どうやら、大学院生は基本的に演奏実技以外の授業がほとんどない大学が多数の中、我が大学は大学院生にも容赦無く講義科目を必修として課しています。そのため、毎日何かしらの授業を大学に受けにいく日々。さらにはドイツ語で講義が行われることが大前提なので、言語で壁がある人間にとっては勉強時間が2〜3倍になります。(5倍になってない?と思う瞬間もあります…)聞かれている質問や内容、周りの同級生が話している内容は、私もちゃんとわかることなのに、「ドイツ語」で行われているだけで何もわかっていないように見えてしまう、わかっていないのではないかと自分で不安になる、この状況が私にとってはとてつもなくストレスフルな時間です。ドイツ語できかれて、理解ができないから英語で聞き返して、もう一度英語で説明してもらって、やっと理解して、そこから英語で回答しようとしても、日本語で学んでいる内容の細かいニュアンスまでは英語で伝えきれないことにもどかしさを感じて、と周りのドイツ人やヨーロッパ各地から学びに来ている友人たちに比べて、膨大な思考回路を処理しなくてはならない私は2時間の講義が終わると疲れ果てます。そこから帰って、たくさんの楽譜の譜読みをして、練習をして、また勉強をして、ベッドに倒れ込む。そんな生活を繰り返しています。(ちょっと最近は夜中もばっと追い立てられているかのように目覚めることもあるけれど)

レッスンも友達との会話も、授業も、日常生活の中で交わされる話も、全て基本は「言葉」から始まっています。この「言葉」に問題を抱えている今、私の頭の中で何が起こっているのか、ちょっと考えてみたいのです。
というのも母国語を話す機会がぐっと減り、異国の地で異国の言葉を使って生きることを始めて1ヶ月。この期間というのは「何か」が変わり始めるきっかけが散りばめられているはずだと思うのです。ガラッと生活が変わったこと、文化の違う国で異国人として生きること、この土地の生活に足を踏み入れること、これまでの修業生活とは違った「生きる」経験が私に何をもたらしているのか、探っていきたいと思います。

「英語を話せるようになりたい」というのが私の出発点でした。高校に入学してすぐ、理解できるではなくて「コミュニケーションができること」の重要さと重大さに気付かされた私は、コミュニケーションのツールとしての言語として英語を学び始めました。それは次第に自分を守るための武器として、英語の力を身につけてきました。意思表示ができる、Yes, Noを言える、音楽的な面でも英語という武器があったから各国の幅広い世代の音楽家の友人と話をすることができ、世界の視野をグッと広げてくれました。
武器としての「英語」はとてもシンプルです。
何がなんでも伝えることができれば、それで良いのです。多少、きつい言い回しだとしても自分の意思が伝わることが最優先。(先生や偉い方には時折、どうしよう…と考え込む瞬間もありますが、レッスンの時や会話の時はレスポンスの速さのほうが私は優先です。というのも沈黙の時間がないことが一番なので)
君はそういうふうに思っているんだね、君の意見はこれなんだね、と相手に理解させることが大切だと思い、文法や綺麗な単語を探す時間を気にするより、自分が言いたいことを最短距離で話すことをいつも意識しています。
この最短距離でダイレクトに自分の意見を言うことができる、それによって思考回路が明瞭で、自分の思いが直球に出てくる感覚は私にとって心地の良いものでした。ストレートな言葉を使うと言うことは、自分の思考もシンプルになります。「私はこうしたい。だからこれをする」飾らず、気取らず、気張ることなく、直感で進んでいく感覚。母国語だからゆえに、さまざまなことに絡め取られてしまう複雑な糸から離れる方法として、私は英語を選びました。

また、1ヶ月生活する中で、新しくできた友人たちによく「あなたは日本人らしくない」と言われます。と言うのも、英語をメインに話している日本人というのは珍しいとか。どんなにカタコトでもドイツ語でコミュニケーションをとる日本人にしか会ったことない!と言われます。
私はドイツ語はまだカタコトで、話すスピードも使える単語も3歳児以下。それでも、「英語」という武器があるからドイツ語が多少ヨボヨボだとしても意思の疎通ができるという安心感が私も話す相手にもある、というのは一つの武器であり、お互いが気持ちよく関係性を築くことができる重要な鍵だと思うので、英語はこれからもさらに磨き続けていこうと日々努力です。友人との会話やチャットで、毎日スラングや省略文章を学んでおります。(友人たち、ありがとう笑)

そして、現在習得中のドイツ語。これは私にとって3つ目の言語になります。ドイツ語は、言葉の少しカクカクした響きとツバを飛ばすかのように話す他の言語にはない強さが、いつも新鮮。
その反面、英語の文法や単語に引きずられて、なかなかドイツ語脳が育たないというのが悩みです。
それでも勉強するのは、コミュニケーションを取りたいから。(もちろん語学の資格試験のためもあるけど)私にとっての英語もコミュニケーションの「武器」ですが、ドイツ語はこの国に住まわせてもらっていること、そしてこの国の文化と血を知るためのコミュニケーションの「ツール」だと思っています。
ドイツ語から見えてくるドイツ人の生活と歴史、英語から見えるドイツの風景は違うと思います。言葉があるから文化や歴史がつくられてきて、それが今この瞬間の時間につながっている。この土地に住む人々の目線に可能な限り近づけるために必要な「ツール」、完璧にはなれないけれど自分の中にその血を取り入れていくために学ぶべきこと、それが言語としてではなく「言葉」としてのドイツ語だと思います。そして、日本人の私はドイツの人にとっては異国の人間。今ではそんな感覚はないかもしれないけれど、潜在的に「自分の国に立ち入ってきた自分とは違う人種の人間」と篩にかけられています。彼らの国に”住まわせてもらっている”、このことを自分に刻むためにも、郷に入っては郷に従え、彼らと同じ土俵の言語を学ぶことは必須なのだと思います。

そして、日本語。コミュニケーションというところに主軸を置くと、正直、私は英語やドイツ語を使って話している時の自分が自然体だと思います。良い意味で深く考えず、自分の心に従って話を進めることができること、思考回路も明瞭です。しかしながら、母国語には当然敵いません。母国語以上に他の言語は上達しない。これを痛感することが多々あります。逆に言えば母国語が磨かれれば他の言語もレベルアップできると思いますが、私にとって母国語の日本語は「表現の一種」だと思います。
言葉の流れ、たくさんの意味を持つひとつの単語、短い中に詰め込まれた細かいひだのような感情、淡くて儚い音の響きの組み合わせや意味の組み合わせ、これができるのは母国語である日本語だけです。もし、私にとって英語やドイツ語が心地よい言葉であればこのnoteも英語やドイツ語で書けば良い話ですが、それではなく日本語で書くのは、自分の小さな波やわずかな感情の揺れを「表現」できるのが日本語だからです。日記を書くのはどれだけ英語やドイツ語に囲まれていたとしても、日本語。
音大生の本棚も、本を紹介することが目的ではなく自分の言葉のチョイスやエッセイ、本から得た表現のキーワードを書き留めることのほうが私にとって重要という思いで一つ一つの投稿を作っています。(だから、読書スピードは早いけれど投稿が全く追いつかないから、限られた本しか投稿できない)どんな言葉を使えるのかな、この本を読んだ時に私が考えたことは?、どんな言葉が自分の心に一番響く?と考えながら、たくさんの言葉を探している時間が本当に楽しいです。
漢字で書くのか、ひらがなか、それともカタカナかアルファベットか?耳で聞く言葉と目で見る言葉の違い。アクセントや声のトーン、古い言葉から現代の言葉、流行りの言葉…
言葉遊びができて、ブラックジョークが言えてわかって、いろんな含みをもたせて…と翻訳できない、自分が日本人だからわかる繊細な表現ができる、それは英語やドイツ語では真似できません。日本人としての感性を発揮できる言語、それが表現としての「日本語」なのだと思います。

私にとっての言葉の意味が3つとも違うのです。
言葉を学ぶ、使うことに何か意味を見出す、島国で隣国と接していない日本で過ごしているとなかなか気がつけません。日常的にさまざまな言語に囲まれて過ごすことで、気が付く「言葉」の発見。きっとまた変化・変容していくのだと思いますが、きっと根底に流れる自分の言葉に対する感覚や言葉観が基本となっていくでしょう。言葉を大切にしながら今日もまた1日を過ごそうと改めて思います。

皆さんにとっての「言葉」はどんな意味をもちますか?

Ciao ;)

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