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文章を書きながら思うこと

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文章を書く中で湧いてきた〈文章を書くこと〉にまつわる疑問や悩み、気づいたことやわからないこと、個人的なこだわりなどを、ここに集めています。
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2019年6月の記事一覧

〈わたしという誰かの演劇〉はいまのところどうにか10回続けられていますが、そんな短いあいだでもやはり変化を感じています。007からギアが入れ替わった気がする。1000字を終えるころには、書きはじめたときには思いもしなかった場所に辿り着く。入り組んだ路地をひとりで散策するみたいに。

「……」と「…」の使い分け。まとまった分量、特に印刷されて読むような文章には、原則「……」を使います。ツイートなどの短文なら、基本的に「…」を使うことに。限られた字数の中で「……」は余韻を持たせすぎかな、と。でも、「…」ふたつ分の間がほしければ、それはかまわず「……」です。

漢数字と算用数字、どちらを使っていいのか悩むことが多々あります。「一度だけ行ったことがある」の「一度」は回数に特別な意味があるので漢数字に。単に数をカウントしているだけなら「徒歩3分」のように算用数字ですが、〈数に込められた意味〉なんてあると思えばあるし、ないと思えばないし…。

句読点は、それ自体が文章のリズムをつくる〈演出〉ですね。意味なく打たれることはありません。息継ぎや思考の流れ、人間同士の距離感など、多くのことを表現します。〈わたしという誰かの演劇〉の〈わたし〉の言葉には句点がありません。読点のみにすることで、現場での演出に幅を持たせたいのです。

「括弧内の文末に句点(。)をつけるひともいますね。」という表記を見ると、僕は居心地の悪さを感じるので「括弧内の文末にはなにもつけません。それは( )でも同様です」というふうに表記することにしています。文末の( )のあとには句点をつけます(が、これでは少し不恰好な気もしています)。

発言や強調を示す場合の「 」のほか、地の文で先に登場した言葉が繰り返されるとき、その繰り返しを際立てたい場合にも「 」を使います。「その繰り返し」とはどんなものを指すのか、といった感じで。専門用語や書き手独自のニュアンスが込められた言葉には、差別化して〈 〉を使うこともあります。

一人称を「僕」にするか「ぼく」にするかで、ずいぶんと文章の印象が変わります。「私」と「わたし」、「俺」と「おれ」も悩みどころです。「ボク」「ワタシ」「オレ」というふうにすると、かなりクセの強い語り手になります。ひらがなのほうがフラットな印象を受けますが、少し幼くも感じられます。

「ひとつ」「ふたつ」まではひらがなにしたいですが、「三つ」以降は漢字がいいです。「ひとり」「ふたり」と来たら「三人」がいい……と、ここで出た「来たら」は特に悩みます。具体的になにかがやって来るわけではないから「きたら」のほうがいいんじゃないか、とか。「〜のほう」はひらがながいい。

「いう」や「くる」は難しいですね。誰かが発言するときには「言う」ですが、「〜ということ」はひらがなでないと気持ち悪い。しかし、それが曖昧なことも…。「こちらを見て来る」と「こちらを見てくる」は別の行動です。前者は「見た」あとに「来る」、後者は「目を向ける」というひとつの動作です。

「嫌」「いや」「イヤ」には、それぞれ違うニュアンスがあります。「喧嘩」と「けんか」と「ケンカ」は別のものだと思うのです。状況によって使い分ければいい話ではあるのですが、読み返すたびに統一したくなったり、バラバラにしたくなったり…。「バラバラ」と「ばらばら」も悩ましいところです。

文章を書くとき、漢字をどこまでひらがなに開くか、ものすごく悩みます。僕は「時」と「〜するとき」を書き分けます。「なに」「こと」「もの」「まったく」「ほんとう」「いま」などはひらがなと決めていますが、たとえば「書き分ける」と「書きわける」、こういう言葉はいつも決めかねています。