見出し画像

父の残像 1

はじめに...

この物語は、今から大分以前、『少年ジェットがいた日.. 』執筆の数年後2009年に書いたもの。
私小説から脱却して、オリジナルのストーリーをと試行錯誤し、いくつかの物語を書いては捨て、書いては捨てした中で、ようやく書き上げた2作目の長編物語です。

その後の他の作品と同様、背景は自分の生い立ちをベースにしています。
2人の(?)主人公は自分をモデルにしていますが、世代を少し変え、物語は昭和40年代を中心に進んでいきます。


旅はこうして始まる…


「なんでトモはベソかいてんだ?」
洗面所から出て、タオルで顔を拭きながら、キッチンに立つ由里(ゆり)に尋ねた。

仕事から帰宅して二階の玄関を開けると、廊下に息子の智治(ともはる)が立っていた。
「おう、ただいま…なんだ、どうした?」
泣きはらした恨みがましそうな目つきで一瞬私を見上げた智治は、一言も答えぬまま背を向けて自分の部屋に入ってしまったのだ。

「なんか、すねてんのよ」
「何を?」
「ほら、あさってから夏休みでしょ。でさ、いつもの仲良しの子たちと夏休み何して遊ぼうかって、いろいろ話したらしいのよ」
「そうか…そういや、もうそんな時期なんだ。で?」
「それがね、今年はみんな結構家族旅行の予定があるらしくてさ、ほら、うちによく来るゆうし君とこなんて2週間ハワイだって。井上君のとこも毎年青森の御実家に帰るでしょ?うちだけなのよ、予定ないの。それであの子帰ってきてあんまりぐずぐず言うから…今年はパパお仕事が一杯入ってるし、うちはおばあちゃんもいるし、そんなに長い旅行はできないって言ったら、なんだかすねちゃってさあ…」
「そういうことか…でもよ、そんなことで10才が泣くか?ふつう…」
「ま、あんまりしつこいからちょっときつく言っちゃったんだけどね。どうせ他の子たちにからかわれたかなんかしたんじゃないの?」
「そうか…じゃあ、久々に3人でどんと旅行でも行くか」
「だって、来月から撮影に入るんでしょ?無理じゃない」
「それが、今日の打合せでさ、延びちゃったんだな、これが。多分9月以降…な、いいタイミングだろ?」
「なんで?」
「クライアントの都合だよ。商品発表の時期が急にずれるんだって。こっちはもう準備終わってっから、スタッフとタレントのスケジュール調整できりゃ来月は結構暇になんだよ。現場さえなきゃ2週間くらいは隙間作れるぞ」
「でも旅行は無理でしょ。第一、お母様のお世話はどうすんのよ?」
「ヘルパーさんの…えーと…」
「渡辺さん?」
「そうそう、お袋のお気に入りだろ?その間日数増やしてもらえないかな?実費でいいからさ」
「そうねえ…明日来るから、聞いてみるけど…でも、べったりは無理だと思うわよ」
「足りないとこは兄貴とかご近所にお願いすりゃ、2週間くらい何とかなっだろう」
「お母様は納得するかしら…?」
「俺から話すよ。いつも散々面倒みてんだから、そのくらい嫌とは言わねえだろ?ま、嫌味の一つや二つは言われっかも知れないけどさ。たまにゃ3人で旅行ぐらいしたって、バチは当たらねえよ」
「じゃ、本当に家族旅行できるのね」
「だな。神様が行きなさいって、言ってんだよ」
「じゃ、トモにそう言っていい?」
「おう、早速俺もお袋に話してくるわ」

母はいつも通り階下(した)の居間に座ってテレビを見ていた。いや、母にはもう殆ど視力が残っていないので、見ているというより、聴いているだけだろう。3年ほど前からは足の関節痛が次第にひどくなり、今では立ち上がることも辛いらしく、一日中殆どテレビの前に椅子を置いて座っている。
家事や祖母の世話など、かいがいしく働き続けていた記憶の中の母の姿はとっくにどこかに消え去ってしまっていた。
「あなたたちの世話になるくらいだったら、とっととどっかの老人ホームに入るからね、あたし」という口癖も、持病の緑内障が悪化し、いよいよ一人暮らしが難しくなると、全く口にしなくなってしまった。

階段を下りてくる私の足音を聞き分けていて、こちらが声を掛ける前に話し掛けてきた。
「コウちゃん?もう夕ご飯?あたしまだあんまりお腹空いてないのよねえ。今日はお夕食何なの?」
「まだ5時前だから夕飯(ゆうめし)はまだだよ。今支度してるから、また後で降りてくるけどさ…それより、ちょっと相談があんだけど…」
「何?トモくんのこと?」
「ああ、ほら、あさってから、夏休みだろ?ここんとこどこにも連れてってやってないからさ…俺、来月2週間くらい休み取れるから、どっか旅行にでも連れてってやりたいんだけど…」
「あら、いいじゃない。でも…あたし、あんまり歩いたりするの無理よ。膝のとこがね、凄く痛いのよ」
「悪いけど、お袋は目も見えないし、足の調子も悪いし、医者だってあんまり出歩くなって言ってたろ?だから…俺たち3人で行こうと思うんだけど…いいかな?」
「あらそう…いいわよ…あたしだって足手まといになるの嫌だし。でも…一人で大丈夫かしら?2週間も…」
「明日渡辺さんに相談してみるよ。お隣の奥さんにも頼んでくから」
「いいわよ。一人で何とかするから。どうせ駄目って言っても行くんでしょ?」
「また…そういう言い方するなよ…一人じゃ何ともなんねえだろ…昼は弁当手配して、夜の分も何とか準備するからさ、できたら兄貴にもここに来てもらうようにするよ」
「いいわよ。そんなの悪いじゃないの」
「悪くねえよ。2週間だけのことなんだから、たまにはそのくらいやって貰わないとな」

貿易会社に勤める兄の克夫は、若い頃から海外への長期出張の多い風来坊気質のサラリーマンで、一昨年2人の子供の成人を期に家族と別居し、現在は都心のマンションで気ままな一人暮らし。しかし昔から母とは根深い確執があって、今でもお互いにどこか距離感がある。


子供の頃、兄は地元の小学校では学年随一の優等生で、運動も得意だった。活発で優しく、友達も多く誰にでも好かれる人気者だったが、何故か母は兄にだけは厳しかった。
母親が長男に特に厳しいという話はそれほど珍しくはない。元来極楽トンボな質(たち)だった私は『長男って大変だな…』くらいにしか受け止めていなかったが、大人になって当時の記憶をふり返ってみると、あれは明らかに常軌を逸していたような気がする。

母は外面は陽気で社交的な主婦を装っていたが、家の中では神経質で悲観的で、いつも何かしらに苛々しており、そのストレスは概ね兄にぶつけられた。もちろん、学校の成績は今一つ、うっかり屋で浅知恵の嘘や言い訳の多い私も、頻繁に母の怒りに触れ、怒鳴り飛ばされたり叩かれることも少なくなかったものの、兄の場合とは比べものにならなかった。

兄の失敗はいつも極く些細なことでしかなかった。約束の帰宅時間にほんの数分遅れたり、外で遊んでうっかり洋服や靴を汚したり、勉強机の上が片づいていなかったり、文房具を紛失したり、夕食の苦手なおかずを不味そうに食べたり、学校のテストで満点を逃したり、弟の失敗を見過ごしていたり…私を含め普通の子供ならばせいぜい小言くらいで済みそうなことに母はいちいち逆上した。
怒鳴られ、叩かれ、夕食を抜かれ、外出を禁止され、真冬の深夜に玄関の外に素足で立たされることもあったし、物差しで叩かれて頬にみみず腫れが数日間残ったこともあった。そんな時、兄は反抗も言い訳もせず、素直に何度も謝るものの、絶対に涙は見せなかった。

実は私は兄が泣いている姿を一度も見た事がない。されるがままに身を晒して、ただひたすら耐えているのだ。あまりの厳しさに、遂に私が泣きだしてしまい、「お願いだから、もう許してあげて」と懇願することも幾度かあった。

母の兄に対するそういった日常の暴力は、来客中や父が家にいる時には全く姿を消してしまう。母は陽気で社交的で大らかで物分かりのよい別人格に変わってしまうのだ。

父はそんな母の実態を分かっていたのだろうか?
父は日本の高度成長期を象徴するような企業戦士だった。帰宅はいつも遅かったが、陽気でスポーツ好きで社交的な、いかにも頼り甲斐のある父親だった。
学生時代に培ったジャズ・ギターや油絵、模型工作にも趣味があり、たまに休暇が取れると兄や私に様々な人生の楽しみ方を伝授してくれた。父のいる我が家は平和で笑い声が絶えず、母も普段とは別人のようににこやかに家事にいそしんでいた。

父は、順調に出世の階段を登っていった。年々我が家の経済状態が向上していることは我々子供の目にも明らかだった。
40代で役員にまで登り詰めた途端、社内の検診で癌が発見された。その僅か2年後に、父は現役のまま48才であっけなく他界してしまったのだ。私が中学、兄は高校に進学した年のことだった。
父が死ぬ数日前、私は偶然病室でやせ細った父と2人だけになったことがある。そのとき何か大切な話をしたような気がするのだが、父の死後その会話の内容をいくら思い出そうとしても何故か何も思い出せないのだ。大好きだった父の死が余程ショックだったのかも知れない。


兄が母に反旗を翻(ひるがえ)したのは父の葬儀が終わってすぐのことだった。
母と兄は幾晩も2人で話し合っていた。いつも母の顔色ばかりを窺っていた兄が、突然別人のように毅然とした態度で母と向き合っていた。
父の思い出話や一家の行く末の話し合いに加わりたい私は、何度か2人の会話に参加しようとしたが、その度に部屋に追いやられてしまったので、2人がどのような話をしたのか遂に分からず仕舞いだったが、ある晩母との話を終えた兄が私の部屋に入ってきた。

「僕たちさ、これからどうなんの?」
大切な人を亡くした悲しみもさることながら、経済的な大黒柱を突然失ったという事実が、我が家に一体どんな影響を与えるのか、中学生になった私には当然のことながら大きな不安だった。

「お父さんな、俺たちがこれから困らないようにかなりのものを残してくれてたぞ」
「本当?」
「ああ…殆どが証券だけどな。相当な保険金もおりるし、会社からの弔慰金や退職金も結構な額になる。俺とお前が大学出るくらいは何の心配もないし、この先のお母さんの生活も心配ない」
「ショウケンって何?」
「株だよ。企業株。ここ2年くらいの間に物凄い増やしてたんだ。お父さんにそんな才覚があったなんてビックリだよな」
「そうなんだ…」
「そういや、入院中も証券会社の人よく呼んでたもんな。だから、これからのことは心配しなくていいぞ。それよりコウちゃん、相続って分かる?」
「財産を引き継ぐってことでしょ?お父さんの相続人はお母さんでしょ?」
「お父さんの相続人は配偶者、つまりお母さんだな。それに子供、つまり俺たちだ。半分はお母さんで、残りの半分は俺とコウちゃんとで分けるんだ」
「え?僕たちの分もあるの?」
「そう。法律でそうなってんだ」
「どのくらいあんの?」
「かなりある。ただし俺もお前も未成年だからな、お父さんの残してくれた財産をどう分けてどういう風に使うかはまだ自分たちじゃ決められないんだ」
「じゃ、お母さんが決めるの?僕はこのまんまこの家に住んで学校に行けるんだったらそれでいいけど…」
「いや、お母さんにも決める権利はないんだ」
「なんで?」
「お母さんの利益と、俺たちの利益が違うからだ。俺たちはそれぞれ別に法定代理人っていう大人を立てなきゃなんないんだ」
「誰?それ…」
「つまり、弁護士とかだな。で、俺たちの代理人とお母さんが話し合って財産の分配を決めるんだ」
「でも僕たちが貰うお金だって結局はお母さんが持つことになるんでしょ?」
「俺たちに分配された財産は、それぞれ代理人が管理することになる。お母さんもそれには勝手に手をつけることは出来なくなるんだ。で、俺たちが二十歳(はたち)になったら自分のものになるんだ」
「でもさ、僕らの学費とか毎日の食費とかお小遣いとかさ、二十歳になるまでにかかるお金だって沢山あるでしょ?」
「それは、お母さんに任せとけば大丈夫だ。養育は親の義務だからな。ま、お前は心配しなくてもいいよ。とにかくお前のことは俺とお母さんに任せときな」
「分かった…」
「実はさ…俺、お父さんから手紙を貰ってるんだ」
「そうなの?どんなことが書いてあったの?」
「これからのことだよ。コウちゃんのこととかお母さんのこととか、財産をどう使えとか…いろいろね…結構長い手紙だった」
「見せてよ。お母さんも読んだんでしょ?」
「いや、お母さんには見せるなって。お前には大人になったら読ませてやれって書いてあった。だから、そのうちな…」

父の死後の煩雑な事務処理は、殆ど兄が主導権を執り、てきぱきと進めていった。

もちろん母の兄に対する理不尽な暴力は、兄の成長に伴ってこの頃には姿を消してはいたものの、感情的な暴発は相変わらず続いていた。
しかし、この時の兄は、母の感情的な罵詈雑言に対して心を乱すことなく毅然と一つ一つ論破していた。元々威圧的な感情の撒き散らしでしかない母の言い分は、論じられるほどの価値も無いことは明らかで、それでも兄は手を緩めることなく、一言も言い返せぬ状況まで丁寧に母を追い詰めていった。唇を歪めて目に涙を滲ませながら「悔しい…」と呟いた母に、兄が冷たい視線を投げかけ「俺が言いたいのはそれだけだよ」と言い放つ光景を私は何度か見た記憶がある。

そして次第に母は変化していった…
それはまるで、父がまだ元気な頃、休日に家にいる時のあの明るく屈託のない母の姿だったが、追いつめられた自我を仮の姿で包み隠していたことは明らかで、今では私も妻も年老いた母からそのほころびをまざまざと見せつけられることがよくある。

兄は大学2年の秋、父の残した財産の受取りを法的に済ませると家を出て、海外留学の手続きを取った。以来30数年…私との関係は子供時代と変わらずいたって親密だが、この家とはあくまでも外の人間としての距離を保ったままである。

留学から帰国後、大手貿易会社に身を置き、日本と海外を行き来し続けただけあって、兄には経済的な才覚があった。父から譲り受けた各株式を全て高値で売却出来たのは兄の助言のお陰だったし、バブル絶頂期には父が残した自宅の土地を半分に分割して売り払うことを勧めたのも兄で、バブル崩壊までに我が家の資産を数倍に膨らませることができた。
私が好きな映像制作の仕事を資金繰りの苦労もなしに今まで続けてこられたのも兄のお陰だと感謝している。


携帯電話から1ヶ月ぶりに聞こえた兄の声は元気そうだった。
事情を話すと、兄は母と2人だけの2週間の留守番を快諾してくれた。
兄は「ま、約束だからな...」とさらりと言った。
「何の約束?」と訊ねると、「お前が覚えてなきゃいいんだよ」と答える。
それ以上の詮索することはやめて、素直に兄の好意に甘えることにした。


二階に上がると智治が目を輝かせて私を待ち構えていた。
「ほんと?ねえパパ、旅行に連れてってくれるの?」
「ああ…今カッちゃんおじちゃんに留守番頼んできたからな。さあ、どこに行こうか?2週間あるからどっか海外に出るか?」
「お母様は大丈夫だって?」
「ああ…日程が決まったら兄貴が前の日から来てくれるってさ。朝晩の食事は兄貴が何とかしてくれるって。お袋もそれならいいってさ」
「まあ…何だか怖いくらいにトントン拍子ね。でも久しぶりよね、楽しみだわ」
「やったぜっ!あのね、僕、行きたいとこがあるんだ」
「どこ?ハワイか?シーズン中は高えし、今から予約取んのも大変かも知れないけど、いいぞ」
「違うよ。あのね、九州のおばあちゃんのとこに行きたい」
「なんだ、熊本?」
「うん」

熊本には妻の実家がある。母の状態が今ほど深刻でなかった2年程前までは、妻は年に1、2回は息子を連れて帰郷していた。私も何度かは同行している。

東京では考えられないほど広い庭のある市内の旧家で、息子の大好きな昆虫採集のスポットが山のようにある。チョコと名付けられた雑種の雌犬が繋がれもせずにぞんざいに飼われていて、たまに訪れる息子とは相性がいいらしく、妙になついていた。動物嫌いの母の猛反対でペットを飼うことが許されない息子にとって、束の間の愛犬との触れ合いは余程楽しいらしく、別れの日にはいつも目を潤ませ、「ねえ…チョコ一緒に連れて帰っちゃ駄目なの?」と訴えていた。

「そうか…最近熊本にも行ってないもんな。なんだか拍子抜けだけど、それもいいかもな。どう?」
「あたしは嬉しいわよ。久しぶりに会いたい友達も沢山いるし…2週間もあれば途中で阿蘇とか天草とかに行ってもいいじゃない。第一お金かかんないわよ」
「そうか…そうだな。じゃ、今回は熊本にするか」
「やったあ!ねえねえ、いつから行けるの?」
「明日次の仕事の人たちと集まるから、そん時決めてくるよ」

智治は何度も『よしっ!』『よしっ!』とガッツポーズを繰り返していた。

第2話につづく…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?