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私がわたしである理由8

[ 前回の話 ]


第五章 野瀬家の居候となる(2)


甲一郎は腕を組み、潤治の話にじっと耳を傾けていたが、話が終わるとテーブルに両手を着き、正雄に向かって身を乗り出してこう言った。
「おい正雄、俺あこの兄さんの話、乗ったぜ」
「おお、そうかい。やっぱり…甲兄さんならそう言ってくれると思ったよ。潤さん、甲兄さんの助けが借りられりゃあ、百人力だぜ」正雄は安心して顔をほころばせながら、潤治に視線を送った。

「おっと、あんまり買い被られても困るってもんだ。俺は丸々全部信じた訳じゃあねえんだよ。考えても見ろ、ああそうですかってすんなり納得できる様な話じゃねえだろ。ただ…辻褄は全部合ってる…こちらの兄さんの人柄も信頼できそうだ…それにだ、俺あ今のこの世の中、なんか大きく間違ってる気がしてならねえんだ。仕方なくこうやってなんとか誤魔化しながら生き延びてるけどよ、川出さんの話だと、この面倒臭え諸々がもう直ぐ終わって、新しい世の中がやってくるってことだろ?好きなダンスも思い切り出来る様になるんだぜ。俺あそれに乗りてえんだよ。兎に角、一か八か信じてみることにした。その方が今よりゃずっと面白えだろう。で?お前さんは…おっと、俺あこれからあんたのこと何て呼んだらいいかね?」
「あ、僕は正雄さんと同い年で、野瀬さんより年下ですから呼び捨てで、結構です」
「そうかい、じゃ、潤さんでいいね。潤さん、あんたはいずれ向こうの世界に帰るつもりなんだろ?」
「え?…ええ、そう出来たらそうしたいんですけど…お話した様に、自分でどうにか出来ることじゃないんで…」
「じゃあ早速、荷物まとめて暫くはここに来てりゃあいい。俺あ見ての通りの1人もんだ。ここにゃ部屋も充分余ってるしよ」
「本当ですか?…有難うございます。助かります…本当に助かります」潤治は深々と頭を下げる。

「良かったじゃねえか。まずはこれで一安心だな。甲兄さんに引き合わせた甲斐があったぜ」正雄が笑顔で潤治の肩を叩いた。
「あの…でも…大丈夫なんですか?あの…野瀬さんは軍部にお勤めだと伺ってますけど…」
「それだ。そこを利用するんだよ。灯台元暗しってやつだな。潤さん、あんた俺と一緒によ、海軍省に潜り込む気はねえかい?なあに、兵隊じゃねえよ。俺と同じ文官職、つうか軍属だな」
「そんなこと、出来るんですか?僕はここでは戸籍も無いし…身元の証明も出来ないんですよ」
「それがよ、潤さん、こんなこと言っちゃあ何だが、丁度いい具合によ、今、戸籍焼失がえれえ問題になってんだよ」
「戸籍焼失…ですか?」
「ああ、この辺りもそうだが、去年あたりから遂に米軍の本土爆撃が始まったろ?あちこちで役所の書類が焼けちまってよ、今役所じゃ役人たちが総掛かりで戸籍原本の疎開に躍起になってるんだ。ここの荏原区でもよ、前の空襲で一割がたの戸籍が燃えて無くなっちまったらしい。元々戸籍なんてもんはよ、明治から始まったいい加減なもんだ。特に東京はよ、震災の時に物凄え量の戸籍が焼けて無くなってんだ。震災後この荏原に越して来た奴も山の様にいる。上手い具合に俺が居るのは国の情報機関だ。どんな風に怪しまれねえ様に潤さん用の戸籍をでっち上げるかなんて、わけねえのさ」
「ふーん…なあるほどねえ…戸籍を作っちまうって訳か…」正雄がしきりに感心する。

「てな訳で、身元のことはどうとでも出来るってえことだ。で、海軍省のことだけどよ、潤さん、さっき色々聞いた話だと、あんた英語の教育をちゃんと受けてる様だね。英語の読み書きはできるかい?」
「まあ…一応話す方も書く方も多少は…でも、そんな程度でいいんですか?」

確かに潤治には学生時代、短期留学の経験があり、仕事を始めてからも海外取材も比較的多かったので、英語にはあまり抵抗はなかった。
「それで充分だ。概ね傍受通信や民間人の手紙の検閲ばっかりだからよ。大したもんじゃねえ。今は人手不足だからよ、英文に強い助手ってえことで押し込んでみるさ。ま、そうすりゃあ官憲の目眩しにもなるし、給金も入りゃあ、配給も優遇される。この先の身の振り方もじっくり考えられっだろう」


翌日、この世界に飛び込んでから5日目、潤治は宿の主人たちに別れを告げ、居候として甲一郎の家に移った。思い掛けず自分の居場所を手に入れることが出来たのだ。
甲一郎が潤治の為に用意したのは自宅母屋の北側奥にある四畳半の和室だった。かつての住人が住み込みの女中のために使用していた小さな箪笥と半間分の押入れのあるいわゆる使用人部屋で、日当たりが悪く、決して住み心地が良いとは言えなかったが、裏木戸と離れに近く、いざという時には素早く身を隠すことの出来る場所で、甲一郎いわく『いくら軍が身元を保証しても、必ずしも官憲がそれを丸々鵜呑みにするとは限らないから』という配慮だそうだ。

電灯ソケット脇と壁に一穴ずつの電源コンセント、離れにあった前扉付きの小さなライティングデスクと延長コードも用意してくれたので、パソコンもほぼ自由に使用出来る環境を手に入れることが出来たのだ。


甲一郎が潤治の新たな戸籍を入手して帰宅したのは、それから僅かに4日後の夕刻のことだった。その間潤治は大量の資料データの中から、昭和20年の夏までに続いた東京空襲のいくつかの記録を探し出していた。

「おう、潤さん、ようやく手に入れたぜ。ほら、お前さんの新しい戸籍の写しだ。ようく読んで頭に叩き込んどいた方がいいぜ」
潤治は渡された封筒から青焼きで複写された手書きの戸籍謄本を取り出して広げて見る。
「あれ?…これ、僕の名前…川出潤治のままって…いいんですか?」
「どうにでも出来るって言っただろう。あんたは浅草区の松が谷まつがやの生まれ。震災で両親を亡くして、一人生き残って荏原に移り住んだ。丁度20歳はたちん時だな。以来俺の前の仕事を手伝って来た。英語は俺と一緒に渡米中に身に付けたことにしとけ。浅草区の父親の戸籍も、荏原で筆頭になった戸籍も震災と空襲で焼失したってえことになってる。細けえことは適当にでっち上げて履歴書にしてもう1枚の紙に書いといた。週明けの月曜には霞が関の海軍省に連れてくから、全部暗記しといてくれよ。分かったかい?」
「あ、はい…わかりました。ど、どうもすいません、色々と…」
「なあに、思ったよりも簡単だったぜ。ちゃんと根回しはしといたからよ、月曜に幹部連中に面通ししたら、そのまんま業務に就いてもらうことになる。ただ潤さんはこの時代も、軍のしきたりやら諸々、よく分からねえだろう。初めのうちは俺にべったりくっついてりゃいい。ま、あんまり心配すんな。大した仕事じゃねえからよ」甲一郎はそう言うと、笑顔を浮かべた。

「ありがとうございます。助かります」
「潤さんも今日からは晴れて自由の身ってえことだ。もうビクビクする必要はねえ。これで一安心だな。ところでどうだい?ずっとそのパソコンとやらに噛り付いてる様だけど、そこにゃあ一体どの位の情報が詰め込まれてるんだね?」
「さあ…どの位ですか…自分でも良く分かりませんが、文書だけだったら、大きな書庫位にはなると思いますけど…」
「全く…凄えな…そんな小っこくて薄っぺたいもんに…70年も経つと世の中あ随分変わるんだろうなあ。ま、その頃は俺はもう生きちゃいねえだろうけどよ。で?なんかこれからのことで役に立ちそうなことはあったかい?」
「はい。この戦争に関係ありそうな資料は全部抜き出して纏めておきました。ちょっと今出しますから…」潤治はパソコンのデスクトップ画面に新たに纏めたフォルダから一つの資料を開く。そこには東京品川区と荏原区周辺の地図に空襲の被害にあったエリアと日付が記されていた。

「これです。戸越辺りが爆撃を受けたのは去年の11月24日ですよね」
「確かに、ありゃあ11月のその辺りだ」甲一郎は画面を覗き込む。
「次に小さな爆撃があったのがここです。えーと、12月の11日です。間違いありませんか?」
「ああ、あれは品川の方だったな…」
「だとすると…やっぱり僕の時代の記録通りってことですね。次は3月4日、それから…」

潤治は画像資料を時系列で示しながら、いよいよその先、3月10日の東京下町地区を壊滅させた大空襲を始まりとした米軍による日本全域に及ぶ空爆の経緯を、資料で拾い上げられる限り一つ一つ示していく。甲一郎の表情は見る見る驚愕に変わっていった…

「こ、この…広島と長崎の…原爆ってえのは一体何なんだ?…」
「原子爆弾です…ウランを使った原子核融合を利用した新型の爆弾です。広島ではたった一発の投下で10万人以上の方が亡くなったということです…」
本当まじか…そんなもんまで出来てるのか。じゃあ敵さんは、本土決戦もさせてくれねえってえことかよ…しっかし、無差別爆撃で何十万人も民間人を殺しちまうって…いよいよ本気で終わらせに掛かってくるってことだな…」
「その後の情報だと、アメリカ政府もいよいよ戦費が底をついてたみたいで、経済的にも政治的にも相当追い詰められてたっていう話ですけど…それは、無差別攻撃の理由にならないと、戦争が終わって70年以上経っても問題視する人もいます。ま、日本も中国や朝鮮半島で相当色々やったみたいですから、戦争とはそんなもんなんでしょうけど…」

「潤さんの時代は、平和なのかい?」
「まあまあ…一応日本はこの70年以上戦争は起こしていないし、加わってもいません。ただ世界ではあちこちで戦争は続いています。なかなか無くならないですねえ…」
「そうか…人間なんて、どんなに文明が進んだところで、そんなもんかも知れねえな…しかし、いくら防空壕を掘ったところで、夏までに日本中で民間人が46万人も死んじまうのか…負けも負け、ボロ負けだこりゃ…ところで、この辺りは大丈夫なのか?」

潤治はもう一つのファイルを開く。
「えーと…これが焼失地域の地図です。大まかですけど、どの空襲でどの辺が焼失するのかが分かります。えーと、こうすると、拡大して見られます…」
「なるほど…来月の大空襲ってえのは、殆ど下町の方ばっかりだな。深川の方は親戚もいるから何とか知らせとかねえとだなあ…これを見る限りじゃ、品川方面は大丈夫みてえだな…」
「問題はこっちなんです。これを見て下さい」潤治はさらにもう一つの画像ファイルを示す…
「なんだよ…こりゃあ…品川・荏原が集中的にやられてるじゃねえか…あ、目黒もだ…これじゃあ正雄んとこもここも、潤さんの実家の方も危ねえんじゃねえかい?」
「うちは大丈夫です。周囲はやられたらしいけど、焼け残ることは分かってますんで。ただ、この5月24日と25日、2日間の空襲で品川や荏原の大部分は焼けてしまうと思います。でも、細かくどの建物が焼けてどの建物が免れるかどうかまでは分かりませんけど」
「そうか…そりゃそうだろな…潤さん、焼け跡の写真とかはねえのかい?」
「あ、写真も何枚かはあります。えーと…写真資料は…こっちかな…」
潤治は別フォルダから何枚かの写真を選び出して、次々と画面に表示させた。

「おっと、ちょっと待った、その前の写真、よく見せてくんねえか?…」
「あ、はい…ちょっと待って下さい…」

甲一郎は、大きく映し出されたあまり鮮明とは言えない一枚の画像に顔を近づけた。両側に一面焼け跡と瓦礫が広がる細い舗装道路の写真だ。多くの人々が道路脇に横たえられ、消防団と思しき数人の人が被害者を運んでいる様子が映し出されている。通り沿いの所々には焼け残った商店の看板や電柱の表示が見えているが、撮影状況が悪いのか現像技術のせいなのか、そこに書かれている文字は読み取れない。

「お、おい…これあ…百反ひゃくたんじゃねえか?…いや、間違いねえ、百反だ…ここが鈴木さんのタバコ屋で、こっちに写ってるのは肉屋の吉野だ…本当まじかよ…跡型もねえや…」
「え?よくご存知の場所なんですか?」
「ご存知も何も…ここは、正雄ん家だ…正雄の店だよ。ほら、ここ」甲一郎は写真の中の道路沿いの一点を指差す。
「本当ですか?僕、正雄さんの所には伺ったことがないんで、分かりませんけど…」
「ああ、そうか…そうだったな。なるべく早く知らせてやりてえが…」
「正雄さんのとこってお店ですよね。電話はないんですか?」
「あそこの電話はこの間供出しちまったから、今はねえんだよ」
「え?電話も供出するんですか?でも、ここも誠治くんのとこも、まだ電話ありますよね」
「そりゃ、軍関係だからだよ。俺は正雄ん家にゃ出入り禁止だし…そうだ、おい、潤さん、あんた明日にでも正雄んとこに出向いて、話しといてやってくれよ。もう出歩いても大丈夫なんだからよ。ただし服はこの間俺があげたやつ、ちゃんと着て行くんだぜ。正雄に一度ここで相談してえって伝えといてくれねえかい?」
「はい、分かりました…」

つづく...



この小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…






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