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私がわたしである理由 3

[ 前回の話 ]


第二章 正雄に連れられて(2)


昭和20年2月…やはり遥か昔の世界に自分はいる…

潤治は何とか心の中を整理したかった。この正雄という人物にそれを相談すべきなのか…いや、何をどう説明しても、どんなにこの人物が親身で親切な人間であったとしても、全てを受け入れ理解して貰えるとは思えない。今日を、明日を、そしてその先を…潤治は、まずは今この時を何とか切り抜けていかなければならない…そう覚悟した。

昭和20年といえば終戦の年だ。日本人はこれから夏までの間に多くの辛酸を舐め、復興に至るまでのその後の数年間もさらに悲惨な時代を送ることになる。もし潤治が未来から来た人物であると信じる者がいたとしたら、その悲劇を知りたがるだろう。そして、その悲劇は避けられないことも知るのだ。絶望するかも知れない。そんな役割をこの自分が果たす為にここに来たとは、思いたくない…では、何の為にこの時代に飛ばされてしまったのだろう…潤治は、自分の記憶の中に何かその原因となるきっかけがあるのではないかと探ってはみたが、思い当たる事は何も見付けられなかった。


4キロ余り…真冬の夜の道のりは、正雄が明るい会話でほぼ埋めてくれたお陰で、思ったよりも辛い行脚ではなかった。この間に潤治は、正雄という明るく大らかで人懐こい人物に惹かれ始めていた。よく考えてみれば、これ程心を開かせてくれた初対面の人物は初めてだった。

辿り着いた湯河原の広い木造の駅舎には、既にその半分以上のスペースにむしろが敷かれ、2箇所で焚かれる大型のだるまストーブのお陰で内部は快適に温められていた。発券の窓口に向かって既に2、30名の被災乗客が列を作り始めていた。

「さ、さっさと手続きだけ、済ましちまおうぜ」
潤治は正雄に促されるまま鞄を背負ったまま列の最後尾に並んだ。


「ご苦労様でした。切符の方を拝見させて頂きます」事務的な初老の駅員だった。
「あ、はい…」潤治はジャケットのポケットから取り出した薄い紙の乗車切符の半券を差し出す。
「明日の臨時急行はまだ、出発時間が決まっておりません。今夜のうちに改札前に張り出しておきますのでご確認ください。えー…東京までですね。申し訳有りません。明日の臨時急行は品川駅止まりとなります。ご不便をお掛けしましたので、本日の運賃は全額払い戻しの上、明日の臨時急行分5円18銭を差し引かせて頂きます。えー、念のため身分証明をお願いします」
「身分証明…ですか?」
「ええ一応念のためですけど…」
手持ちの運転免許証も健康保険証も使用出来ないことは、考えるまでもない…

「あ、あの…さっきのゴタゴタで、ど、どうも…コートごと、あの…諸々紛失した、様なんですけど…」
「あー、そうですかあ…それは災難でしたね。では改めて明日にでも紛失届けを提出してください。今日はもう担当がおりませんので。では…差し引き金額の、18円52銭と…えーと、改めてこちらが明日の臨時急行の乗車券ですね。どうぞお気をつけて。では、次の方…」


「おう、どうだったい?上手いこと済んだかい?」列から離れると、そこに正雄が笑顔を浮かべて待っていてくれた。
「え、ええ。明日の切符も、貰いました」
「まあまあ、一安心だ。じゃ、くつろげる場所を確保しねえとな。一晩ここで過ごさなきゃなんねえ様だからな…」

2人は一面むしろの敷かれた広い待合所の一番隅の角に荷物を置いた。その後も列車の乗客たちは続々と駅舎に到着し、発券の窓口は既に長蛇の列となっている。

「あっちで暖けえ茶が貰えるらしいから、俺あちょっと行って貰って来るわ。潤さんも喉乾いたろう?」
「あ、ええ。じゃお願いします。俺は外でちょっと、あの、煙草吸ってこようかな…」
「何言ってんだよ。煙草なんてここで吸やあいいじゃねえか。何も寒い思いするこたあねえよ」
「え?い、いいんですか?ここで吸っちゃって…」
「当ったり前えだ。潤さんは可笑しなこと訊くねえ。茶と一緒に灰皿も借りてくるからよ。それより潤さん、荷物はちゃんと見てねえと駄目だぞ。こんなご時世なんだから、いつどこで掻っ払われても可笑しくねえんだからよ。分かったかい?」
「あ、は、はい。分かりました…」

正雄は茶碗を2つと端の欠けた簡素な焼き物の灰皿を持って潤治の元に戻ってきた。
「ほれ、ちょいと熱いぜ、気を付けろよ」
「あ、有難うございます。戴きます…」

2人はまだ湯気が立ち昇る茶を啜る。
「あーっ!暖けえ茶は旨えなあ…ちっきしょう、ここで甘いもんの一つでもありゃあなあ…はは、ま、贅沢は言えねえか…」
「あっ!そうだっ!」突然潤治が叫んだ。
「な、何だ?どした?」
「甘いもの、僕、持ってます。一昨日は京都にも寄ったんで…」
潤治はそう言うと自分の鞄のジッパーを開いて、荷物を探り始めた。帰京したら母親の施設に顔を出すつもりでいたので、介護士たちへの日頃のお礼にと餡入りの生八ツ橋の詰め合わせを2つ購入していたのを思い出したのだ。
「本当かい?」
「ええ、ちょ、ちょっと待ってて下さい。えーと…あれ、こっちじゃないか…ああ、あったあった。これです」潤治が鞄から取り出したのは綺麗に包装された二つの四角い箱だった。その包装紙をもどかしそうに解き、一方の箱の蓋を開く…

「おお、潤さん、こりゃあ餡入りの餅かなんかかい?」
「生八ツ橋ですけど…」
「八ツ橋ってえと…あのパリパリした京都の煎餅だろ?」
「…あ、そうか…」八ツ橋は元々生のものは無かったと聞いたことがある…もしかすると、この時代に生八ツ橋は無かったのかも知れないことに潤治は気付いた。

「あ、あの…これは、その…し、試作品で…取材先のお店で、あの、土産に貰ったんで…」
「何だよ、いいのかい?そんな貴重なもん…土産にするんだろ?開けちまってよ」
「ええ、大丈夫です。もう渡す人もいないんですから」
「何でだよ?」
「あ、えーと…その、これは、なまものなんで…早く食べないと美味しくなくなっちゃうんで…」
潤治は咄嗟に思いついた言い訳で辻褄を埋める。これほどすんなり言葉が出てくることに自分でも驚いた。先程の窓口の時もそうだった。想像もしなかった窮地のせいなのか、自分の中で何かが少し変わり始めていることに気が付いていた。

「じゃあ、遠慮なく一つ頂こうか…どれ…」正雄は嬉しそうに一つを摘み上げて半分を食べた。
「おおー、こりゃあ旨えや。餡もしっかり甘えし、疲れが吹っ飛ぶぜ。ここでこんなもんにお目に掛かれるたあ夢にも思わなかったぜ」正雄はそう言うとさらに旨そうにお茶を啜った。

「あの、これ、沢山あるんで、皆さんにも分けて差し上げた方がいいですかねえ?」潤治がそう聞いたのも当然だ。先程からの2人のやり取りに、周囲に座った人々が羨ましそうにちらちらと視線を送っている。控えめではあるもののその視線は痛い程だった。

「そりゃあ、この寒空、大荷物抱えてあんだけ歩いて来たんだ。皆んなお疲れだろうよ。だけど、いくら沢山あるからって、皆んなに配ったらあっという間に無くなっちまうぜ。いいのかい?今時こんな貴重なもんをよ」
「僕は構いません。元々他人ひとに差し上げる為に持ってきたんですから」
「そら皆さん喜ぶぜ。いいねえ、潤さん、が良くてよ。気に入ったぜ」
「じゃ、ちょっと回って来ます…」

そうは言ったものの、駅舎の待合所には既に軽く百人を超える人々がそれぞれ思い思いに座り込んでいる。生八つ橋の詰め合わせは介護施設に持っていくつもりだったので、一番大きなものを2つ選んでいたが、それでも5、60個ほどしかない。潤治が箱を持って立ち上がっても、自分からそれを求めようとする人は誰もいない。皆あくまでも遠慮を守って無関心を装っているのだ。

兎に角、すぐ近くでお茶を飲んでいた初老の女性とその連れの中年女性から声を掛けた。
「あの、お疲れでしょうから、甘いものでもお一ついかがですか?」
「まあ、いいんですか?嬉しいわあ…」
「どうぞ、よかったら、お一つ…」
「こら、ありがたいわ、じゃあ娘に一つ」
「俺はいいから、あっちのお子さんに上げてやってくれよ」
「お、餡子餅やないですか。ほんまに頂いてもええんですか?」
「爺さん、甘いもんやて、有り難く貰い」
「いやあ、気前のいい方ですねえ、すんません。有り難く…」
「嬉しいねえ…あんこなんて久しぶりだねえ」

勿論全員には行き渡らなかったものの、潤治のこの行為は待合所で悶々と疲労と不便を受け入れていた乗客全員に明るい活気を与えた。空になった箱を持って居場所に戻る途中も何人もの人たちから笑顔と礼を投げかけられた。子供の頃から目立つ行為は極力避けて来た潤治だったが、何か心の中の重い蓋が取り除かれたような気がする。正雄は満面の笑顔で潤治を見守っていた。


翌朝の臨時急行の出発は朝の9時30分と遅めだった。新たな車両の手配に手間取ったのだろう。

車両は明らかに古い別々のローカルな車両を3両繋ぎ合わせたもので客車内は新たな客も含めてぎゅうぎゅう詰めの状態。潤治と正雄は荷物と一緒に床に座り終点の品川を目指す。車内でのおよそ3時間、昨夜の礼にと潤治の元にはスルメやみかんやせんべいなど、様々な差し入れが届けられ、それぞれに会話を求められ、沢山の人々と交流することが出来た。これ程荒んだ時代の人々なのにも関わらず、皆一様に礼儀正しく控えめで、人との触れ合いを大切にしている様に思えるのだった。

車中、様々な乗客や正雄との会話の中で、潤治はこの時代の人々の生活や習慣について多くの情報を耳にすることが出来た。移動許可、公共交通、物価、米穀通帳、外食券、勤労奉仕、隣組、防空演習、配給制度、ヤミ価格…もしも自分がこの時代にこれからも身を置かなければならないことになるのだとしたら、全てが重要な情報だ。潤治はなるべく怪しまれない様に注意を払いながら、必死で聞き耳を立て続けた。


品川駅に到着し、降車したホームでも多くの乗客が潤治に声を掛けてくる。深々と頭を下げる老女、手を振る子供、握手を求める男性、会釈で微笑みかける女性、笑顔で肩を叩く老人など、それぞれの想いで潤治との別れを惜しんでくれていた。

「しかし、最初の見立て通り、潤さんは本当に浮世離れしてるよなあ。こんな時代だからよ、お人好しだの気前がいい奴だの、ここ暫く会ってねえんだよ、彼奴らは。そんなことしてたら生きていけねえからよ。思い出したんじゃねえかな。そうだったそうだった、日本人てえのはこういうもんだった…てな。俺も潤さん見てるとよ、何か気持ちが、こうスーッと安心するんだよなあ。どっから湧いて出たのか知らねえけど、もしかすると、あんたみたいな人がこの時代にゃ必要なのかも知れねえなあ…」


潤治は正雄と2人連れ立って、品川から大崎広小路までの道を歩いた。これから自分はどうなるのか、何処に行って何をすればいいのか、何一つ何の当ても見当たらなかったが、何故かいつもより自分の存在が確かなものになっていく様な気がしていた。

正雄は、もし急ぐ用事がないのなら、自分の家に寄って行かないかと潤治を誘ってくれたが、まずは帰宅を急ぎたい旨を伝え、後日必ず訪問することを約束して正雄とは別れた。

実はこの時はまだ、一人きりにさえなれば、この異常な状況から逃れられる様な気がしていたのだ…




この小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを描き下ろして頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…
https://i.fileweb.jp/taizodelasmith/




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