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私がわたしである理由 6

[ 前回の話 ]

第四章 壮行の宴席(2)


駅裏手の路地に面した古い珈琲店だった。
店主は黒いベストに蝶ネクタイ姿、正雄や潤治と同じ位の年回りの少し太めで人の良さそうな人物だった。

「おう、ベンちゃん、ちょいとまた席借りるぜ」
「なんだよ、正雄じゃねえか。悪りいなあ…へへ…丁度今満席でよ」
「寝呆けたこと言ってんじゃねえぞ、これの一体どこが満席なんだよ。ガラッガラじゃねえか。見栄張ってんじゃねえぞ、本当によ。一番奥に入るからな。3人。こちらお2人は男爵家のお坊ちゃま方だ。そそうがねえ様にもてなすんだぞ」
「分かったよ。お3人ともコーヒーでいいかい?」
「何がコーヒーなもんかよ。この前みてえのは御免だからな」
「今度は大丈夫だよ。大豆と百合の根っこ炒ってみたんだ。なかなかだぜ」
「まあ、何でもいいから持ってこい。何にもねえよりゃマシだ。頼んだよ」
「おう、分かったよ…はは…ごゆっくり」

3人は奥行きのある店内の一番奥の小さなテーブルに席をとった。
正雄は早速話を続けた。今日になって正雄は昨日別れた潤治のことがやけに気になり始めた。偶然の事件で知り合った2人だったが、別れた後になって、潤治の持ち物や服装、浮世離れした言動の1つ1つが、とても同じ東京に住む人間のものとは思えないことが頭から離れなかったのだ。

そこで正雄は、貰っていた名刺を頼りに電話で連絡してみることにした。ところが名刺の電話番号はあり得ない桁数…聞いていた住まいも大して遠い場所ではないので、住所を頼りに散歩がてら出向いみた。果たして名刺にあった目黒区中町という住所はどこにも存在しない。ただ、本人から下目黒四丁目付近であることは聞いていたので、近所で尋ねると直ぐに川出家の場所は探し当てることが出来た。

訪ねた正雄に対応したのは誠治だった。昨日出会ったここに住む川出潤治という人物を訪ねて来た旨を伝えると、彼は正雄を家に招き入れ、自分が知ることを全て隠すことなく説明したのだ。

勿論、初めは正雄にとって天地がひっくり返る程の驚きだった。とても真実とは思えず、目の前の年若い青年が空想した作り話なのではないかと疑ったが、誠治はその疑いを論理的に晴らしていったのだ。川出潤治という存在は川出家には存在しないこと、潤治が一族でなければ知り得ないことまで知っていること、この時代ではあり得ない服装とデザイン、身につけていた腕時計、持っていた鞄に付いていたチャックの材質が金属ではなかったこと、玄関に脱ぎ置かれた革靴の靴底の素材、そして見せられた運転免許証に記されていた情報や携帯電話の画像表示の件も加え、潤治は70年以上もの未来から来た人物であり、実は自分の未来の息子であると説明した。

名刺、タバコ、プラスチック製のライター、生八ツ橋…正雄にも多くの符号点があるので、信じざるを得なかった。さらに誠治は今現在の潤治の危うい立場についても説明し、まだ15歳の学生である自分にはこれ以上の擁護は手詰まりであり、誰か大人の協力者が居ないものか悩んでいることを相談したのだ。

「…でよ、俺が一肌脱ごうってことになったって訳さ。なあに袖振り合うもなんとかって言うじゃねえか。俺あ潤さんのことは気に入ってるからよ。ちょいと思い付いた考えがあるんだよ。潤さんのことを面倒見てくれそうな俺の親戚がな、一人思い当たるんだ。俺も今日聞いたばっかしだし…ま、いきなりって訳にゃあ行かねえだろうけど。何とか直ぐに段取りつけてくるから、一度その人に会いに行ってみねえか?」
「本当ですか?...それは有り難いです。是非お願いします。僕も何とかしないといけないと思って、今日一日、街の状況とか見ながら、取り敢えずの自分の身の振り方を探ってみたんですけど、僕にはこの時代の身元そのものが無いし、配給も切符も伝手も何も無くて…どうしたものかと悩んでいるんです」潤治の不安はいつもの微笑みに現れていた。
「そうかい、じゃ決まりだな。ま、心配にゃあ及ばねえよ、潤さんたった一人のことだ、何とでもなっだろうぜ」正雄はそう言うと心強い大きな笑顔を浮かべる。
「それで…どうでした?あの宿…何か不具合とか、怪しまれたりとか、ありませんでしたか?」心配そうに誠治が尋ねる。
「いや、誠治さんのお陰でとても居心地よく居させて貰ってます。女将さんも結構いい人で。そうそう、実はね、こんなことがありましてね…」潤治は今夜のささやかな壮行会について経緯を話した…


「俺あよ、潤さんのそういうとこが好きなんだよなあ…いいじゃねえか。で?荏原に住んでたその人っていうのは、どんな人なんだい?」
「いえ…ただ同じ泊まり客っていうだけで、会ったことは一度もないんです。ですから名前も知りませんけど…あ、でも、今夜は会えますけど…」
「うちは軍部の伝手で今の所米にはそれ程困ってないですから、昨日のは全部使って貰ってもまた追加でお届けできますよ。さすがに、お酒は無理ですけど…」誠治が申し出る。
「酒なら少しだったら何とかなるぜ。前に親戚から送って貰った樽酒がまだ多少残っててよ、少しなら分けてやれるぜ。後でうちの小僧にでも届けさせるよ」

誠治と正雄の協力は、潤治にしてみれば、全く出口の見出せない暗闇に、ようやく差し込んだ一筋の光だ。特に正雄に関しては縁も所縁もない偶然知り合った他人でしかない。そこまで頼ってしまって良いものかと躊躇はある。
「いやあ、これ以上お世話掛けるのも恐縮ですから…」
「何言ってんだよ。こんな時代によ、人様の手助けが出来るってだけ幸せってもんだ。遠慮なんかするもんじゃねえよ」
「そうですよ。僕は潤治さんの…ふふふ…父親なんですから」
「お、そうか。こんな心持ちのいい奴はよ、一体どんな親に育てられたのかと思ったら、隣に座っていやがった。はは…」

その時、店主がテーブルにコーヒーを運んできた。
「へいコーヒー3つ、お待たせしました。砂糖とミルクは、勘弁してくれよ」
3人は置かれた湯気の立つカップを取り啜る。

「おう、何だよ今度あなかなかいけるじゃねえか」最初に口を開いたのは正雄だ。
確かに、コーヒーの風味とはほど遠かったが、香ばしいさっぱりとしたほろ苦さが胸の奥まで染み渡り広がっていく…
「美味しいですねえ…」誠治が潤治に微笑み掛ける。
「本当に…美味い…」潤治が応えた。
脇に盆を抱えたまま、店の主人が満面の笑顔を浮かべて傍から3人の様子を見守っていた。


目黒の旅人宿『旅荘三橋』に潤治が戻ったのは夕刻6時を少し回った頃。女将も主人も嬉々として厨房で今夜の準備に勤しんでいる様子だ。

「ああ、川出さん、お帰りなさい。取材とやらは首尾よくいきましたか?」
「あ、ええ…まあまあってとこです…」
「こっちは大収穫ですよ。うちのがね、お手柄でね、いいヒラマサ手に入れて来たんですよ。今造ってるから、何とか良い夕餉になりそうですよ」
「そうですか、そりゃあ楽しみです」
「もう少しだからね、今お一人お風呂使ってますけど、良かったらご一緒にどうぞ。下にお席はもう用意しましたから」
「あ、はい、分かりました」

2階に上がって部屋に入り、着替え用に昼間室内に干しておいた下着とシャツを取り、潤治は風呂場に向かう。宿の湯船は3人位なら充分に余裕をもって浸かることの出来る広さ。勿論この時勢、毎日沸かす訳ではない。泊まり客の少ない時には家族用の内風呂を利用し、客のない日は家族は近所の銭湯を使っているそうだ。


「失礼します…」
潤治が上がり湯を使い、湯船に身を沈めると、既に寛いでいた先客が声を掛けた。
「あのお…も、もしかして、か、川出さんですか?」
「あ、ええそうですが…えーと?」
「あの、じ、自分は、い、伊東いとうです。あ、伊東と、も、申しまして、こ、こちらにお世話になっている者ですが、あの、じ、自分の入隊の為に、か、か、川出様から、お、お米を頂いたと女将さんから聞きまして…」
「ああ、あの明日入隊される方っていうのは、おたくでしたか」
「え、ええ。夕刻に、お、お礼を言おうと思って、お、お部屋の方に伺ったんですが、ま、まだお帰りになってなくて…」
「ああ。それはどうも。今日は一日外出していましたもんで…初めまして、川出潤治です」
「こ、こ、こちらこそ…い、伊東です。伊東泰造たいぞうと申します」
坊主頭で丸眼鏡を掛け、ひょろりと痩せた小柄な人物だった。年齢はせいぜい25、6にしか見えない。対人に不慣れなのか、吃音が少し気になる…
「この度はどうも…とんだことだそうで…」

潤治が軽く頭を下げると、伊東は意外そうに眼鏡越しに目を見開く。
「い、いえ…はは…なんか、そ、そんな風に言って頂けると…じ、自分は、あの…な、な、何て言って良いのか…」
「え?僕、何か変なこと言いましたか?」
「あ、あの…入隊の時は、ふ、普通…み、皆さん、お、御目出度うございますとか…お、お、仰るんですけど…」
「あ、そうか…すいませんっ。つい…」やはり潤治は今一つこの時代に慣れていない。理解はしているつもりでも、どこか自分の時代の感覚をそのまま引きずってしまう。
「い、いえっ、いいんです。そ、そんな風に言って頂いて、じ、自分は、その…い、行きたくて行く訳じゃありませんから…はは…だ、駄目ですよね、こ、こ、こんなこと言っちゃ…」伊東はそう呟いて目を伏せる。
「まあ、いいじゃないですか。ここは僕と2人だけですし。しかし、お見受けしたところお若そうなのに、よく今まで兵隊に取られずに済みましたねえ」
「はい、お、お、お恥ずかしい話ですが、じ、自分は、こ、こんな貧弱ですし、びょ、びょ、病気がちで、も、元々、へ、へ、丙種なんです。仕事も、で、電気技師ですから、た、体力も必要ありませんでしたし…でも、まあ、か、か、家族も先に逝きましたし、そ、そろそろ自分も潮時なのかな…と…」
「ああ、女将さんから伺いました。空襲でご家族を亡くされたそうで…お気の毒です」
「え、ええ、も、も、もう身寄りは、ひ、1人も居ませんから、こ、この先1人で居たって、し、仕方ないですし、あ、赤紙貰って、ああ…そ、そういうことなんだなあって…す、す、すいません、なな、泣き言みたいになっちゃって…へへ…」
「まあ、いいですよ。誰だって泣き言の一つや二つはあるもんです。いいですよ、誰も聞いてないんだから、僕で良ければ何でも聞いて差し上げますよ」
「へへ…あ、有難うございます。な、何か川出さんみたいに仰ってくれる人は、な、なかなか居ないんで、嬉しいです。す、少し気が楽になります」

余程孤独が身に染みていたのか、伊東は潤治が身体や髪を洗っている間も、湯船の縁に座って話を続けた…地方の商家を勘当された父と身売り同然で東京に出てきた元女給の母親の間に生まれた一人息子で、父は満州事変で戦死し、母親もその後を追う様に病死する。伊東が17歳、丁度中学を卒業する頃だった。その後軍需企業を通じて電気技師候補として、高等専門学校で学び、軍用の通信機や電波探知機の開発に携わってきた。同じく職場で知り合った孤児出身の女工と3年前に結婚し、翌年には一女を設けたが、運悪く昨年の空襲で妻と娘を失ってしまう。その後は軍関係の技師を続けることを嫌い、外房の小さな電気修理業者の手伝いを続けていたということだった。お世辞にも口達者ではなく、普段はあまり他人と喋らないのだろう。ぽつぽつとあまり幸福とは言えない人生の断片を語り続けた。

「か、川出さん…せ、戦争って、な、何なんでしょうねえ?…」伊東は最後にそう投げかけた。
「戦争ねえ…何でしょうねえ…やっぱり人間は群れる動物ですから、ぶつかり合いもあるんでしょうかねえ…」
「ぶつかり合いかあ…そ、そんなもんに巻き込まれて、い、命まで取られちゃうんですね。な、何だか…せ、切ないなあ…へへ…」伊東は自嘲的に笑い、再び湯船に身を沈める。

「あの…ここだけの話ですけど、この戦争、それ程長くは続きませんよ。あと半年、どんなにきつくても、周りと馴染めなくても、他人から何と言われても、半年間だけです。8月の中頃まで、何としてでも生き延びて下さい。そうしたら次の時代が始まります。その時代は、あなたの様な電気の知識のある方にとって、きっと面白い世の中になりますから。ね、諦めないで、生き延びて下さい」
「え?な、何で、そ、そんなことが言えるんですか?な、な、何で、そ、そんなことが分かるんですか?」
「あの…それは、今は言えません。ただの変人の戯言たわごとだと思って貰って構いません。でも半年だけ、嘘だと思って何とか生き延びてみて下さい。もし、伊東さんが半年後、元気に戻ってらっしゃったら、その時に理由は全てお話しますから」
「か、川出さん…川出さんて、ふ、不思議な方ですねえ。そ、そうか…死にに行くんじゃなくて、生き延びに行くのかあ…ふふ…面白え人だなあ…そ、そう言われると、やってみようかって気になりますよ。次の時代かあ…わ、分かりました。お、俺、やってみます」伊東はそう言ってようやく笑顔らしい笑顔を浮かべた。


「川出さーん!山口屋さんの御遣おつかいの方がいらっしゃってますけどーっ」
風呂から上がり、宴席が用意された一階の座敷に伊東と一緒に向かう途中で、潤治は厨房の女将から呼ばれた。
「山口屋?…何だろ?…あ、はいっ、今行きまーす」

年の頃は誠治とあまり変わらないのだろうか、作業ズボンに藍色の半纏はんてんと前掛け姿の背の低い青年がまだあどけない不安そうな表情を浮かべて厨房の勝手口に立っていた。

「どうもすいません、お待たせして。川出ですけど…」潤治が近づき声を掛けると、青年は慌てて被っていたハンチング帽を脱ぎ頭を下げる。
「ど、どうもっ、山口屋の功夫いさおと申します。あ、あの…うちの大将から、これを川出さんにお届けする様、言付かってきましたっ」そう言うと片手に下げた風呂敷袋をもどかしそうに解いて1本の四合瓶を取り出した。
「あ…もしかしたら、山口屋さんって…藤村正雄さん?ですか?」
「はいっ、藤村はうちの大将ですっ」功夫と名乗った青年は笑顔で答える。
「いやあ、寒いのに、わざわざ有難う。あ、そ、そうだ…」潤治は慌ててポケットを探り、紙幣の中から10銭札を1枚差し出した。
「これ、少しですけど、お駄賃に…」
「いえっ、大将から駄賃はくれぐれも頂かない様に言われてますんで。あのお、へへ…大将からもう貰ってますから…あ、そうだ、それと、うちの大将が明日の昼前にこちらにお迎えに伺うって伝えておく様に言われましたんで」
「あ、そうですか。分かりました。昼前ですね。宜しくとお伝えください」
「はいっ。じゃ、俺はこれで、失礼しますっ」功夫はそう言うと丁寧に勝手口の引き戸を閉め立ち去った。

「川出さん、何だったんですか?」後方から様子を伺っていた女将が尋ねる。
「あ、女将さん、これ…あの、知り合いが届けてくれて。日本酒です。今夜の席にどうぞ」
「あらまあ…こんなに…これだけありゃあ1人1本ずつつけられますよ。じゃあ有り難く使わせて頂きますよ」
「はい、お願いします」


伊東の壮行会は、この時勢にしては思い掛けず豪華な宴席となった。主人が入手したヒラマサは半身を刺身造りに、半身は煮付けに、筑前煮に何処から調達したのかだし巻き卵、叩きごぼうに葱とワカメのぬた、日本酒の熱燗が添えられ、皆久々の馳走に舌鼓を打ち、杯を交わし合った。

潤治がこの時初めて会ったもう一人の老齢の泊まり客は、こんな豪勢な席で送り出される伊東は幸せ者だ、是非手柄を上げるべく立派に戦わなければならないと激励を浴びせていた。旅館の主人と女将が加わっても、たった5人の小さな宴席だったが、その場はずっと和やかで笑いの絶えない宴席となった。

最後にたっぷりの白米と碗、漬物が振る舞われると、宿の主人が『故郷』を歌い始めた。直ぐに周囲もそれに続いて唱和する…
「…志を果たして、いつの日にか帰らん、山は青き故郷、水は清き故郷…」席に居た全員が目を潤ませていた。


宴が終わり潤治が部屋に戻ると直ぐに、伊東が訪ねてきた。
「か、川出さん、今日は、あ、有難う御座いました。お、お陰様で自分は、せ、戦地に行っても目標が出来ました。か、必ず生きて帰って、ここにまた戻ってきます」
「是非、そうして下さい…」潤治は微笑み返した。


つづく...



この小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…




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