【セルフケアとしての推し活】を考える
【推しの妄想】それは【慈悲の瞑想】
第一部「気づき」
筆者は現時点で、人生の四分の三くらいの時間を、ゴリゴリのBLオタクとして生きてきました。
そしてその【気づき】が降ってきたのは、いつものようにスマホで推しの画像を漁っていたときでした…。
「【推しの妄想】と【慈悲の瞑想】は、同じ構造ではないか?」
第二部「確信」
私はセルフケアの一環として「マインドフルネス」のオンラインプログラムを受けています。
プログラムの内容はとても信頼のおけるものです。理由は、プログラムを提供している臨床心理士の先生が、IMA認定MBSR(マインドフルネスストレス低減法)講師・公認心理師の肩書を持っている方であり、学術的な根拠に基づいた内容だからです。
(世の中では、「マインドフルネス」という言葉がとても広く使われており、その中には怪しげなものもたくさんあります。)
そしてそのプログラムの一つに「慈悲の瞑想」というものがあります。
「慈悲の瞑想」とは何か?
ネットで調べてみると、様々な情報が出てきますが、大雑把にまとめると
「自分自身、身近な人、ひいては生きとし生けるすべてのものに、慈しみの気持ちを向ける瞑想法」
……ということのようです。
筆者は、週に一度、先生の音声ガイドのもと、この「慈悲の瞑想」を実践してきました。現時点で半年ほど続けています。
しかし、これは……自分にとって楽なものではありませんでした。
筆者の場合、自分自身にも他者にも、慈しみの気持ちを感じることが難しく、実践の中で、気持ちがつらくなり、涙が出ることも度々ありました。
「慈しみの気持ちを持つのは、簡単ではない。慈しみの心を育むなんてことは、自分には無理なのではないか」
そんな考えも生まれました。
しかし……、気づいたのです。
『私、推しに対しては、慈しみの気持ち、めちゃくちゃ持ってるな……』
というか、持ちたいと願ったわけでもないのに、自然と生まれちゃってる。推しへの慈しみの心。生まれて、破竹の勢いで育っちゃってる。日に日に増しすぎてむしろ持て余している。
しかも、推しへの慈しみの気持ちは勢いが激しすぎて、推し本人だけでは到底捌け口として足らず(失礼な言い方になってしまいスミマセン)、推しを生んでくださったご両親、そのまたご両親、からのご先祖様、そして現在の推しを支えている関係者の方々、ファンダムの皆様、そのご家族…… と無限に広がっていき、最終的には「推しという存在がうまれたこの宇宙を構成する物質の一つとしての自分」、つまり自分への慈しみにまで、勝手にたどりついたのです。
そこで最初の疑問が生まれました。
「【推しの妄想】と【慈悲の瞑想】は、同じ構造ではないだろうか?」
第三部「実証」
この気づき(仮説)を実証するべく、私は【慈悲の妄想】と【推しの瞑想】の類似点を紙に書き出してみました。
すると驚くべきことに……
予想していた以上に、多くの要素が一致していました。
『とんかつDJアゲ太郎』におけるとんかつとDJの関係のごとく、見事な相似形が見えてきたのです。
ここまできたらもう、実証するっきゃない。
もともと「推し活は最高のセルフケアである」という持論を持っていた私は、この機に自分自身を実験体として、【推し活】と【慈悲の瞑想】、ひいては【マインドフルネス】【メンタルヘルス】の関係を、日々モニタリング、記録、整理する試みを始めることにしました。
それがこのNOTEの記事となっていく予定です。
そんなわけで、次回は【推しの妄想】と【慈悲の瞑想】の具体的な類似性について書きたいと思います。
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