古道をあるく 【北山辺の道】新薬師寺〜帯解寺 奈良
世間の三連休、ワタシは飛び休でした。
振替休日の月曜日、歩く場所は決めてあり、バスの時刻だけ調べて近鉄奈良駅に向かった。
出発時刻より早く着いたので、乗り場だけ確認していつものパン屋さんでシナモンロールとコーヒーで腹ごしらえしバス停に行く。
時刻表を見ると・・・・ん??・・・あれっ??
違う!
ワタシが調べたのと違う!
10分前に出た・・・
ちーーーん。
バス案内のお姉さんにも確認したが、やはり行ってしまったバスだった。
次は3時間後。
呑気にシナモンロール食べてる場合じゃなかった・・・ツメが甘かった。
きっと今日はそこへ行く日ではなかったに違いない!?
とういうことで気を入れ替えて予定変更。
いいことに、ここは奈良駅!どうにでもなる場所。
そこで実はもう一つ考えていた道があり、そちらを歩くことにした。
それが
『北山辺の道』
桜井から天理の石上神宮までが南の山辺の道として、天理から春日大社までを北の山辺の道とされている。
なので本当は天理から歩きたかったが、まあよしとしよう。
まずは山側に向かう。
高畑エリアに入る
落ち着いた住宅街に、老舗酒造や奈良漬け屋さんが点々と現れる。
写真美術館の横の道を上がれば、隣に新薬師寺
まずは新薬師寺を参拝することに。
今日は本堂でをしっかりお参りしよう
新薬師寺
天平19年(747)に聖武天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后によって創建。
新薬師寺は別名を香薬寺といい、九間の仏堂に「七仏(薬師)浄土七躯」があったという。
初めて実物を拝見する御本尊、薬師如来様。
目がぱっちり開いていて、ちょっとかわいい表情!という印象。
そして躍動感あふれる十二神将の皆さん。
薬師如来様の周りをぐるっと守っいた。
シンプルで剛健な本堂の造りの静謐な空間に、優しい眼差しの御本尊の前でしばらく心安らかなひと時を持つことがてきた。
奈良中心地から少し離れただけで静かなエリアに、現在は規模こそ大きくはないが、ゆったりと落ち着いた境内に本来の心も身体も癒すお寺の姿がみられた。
ここから山辺の道を辿って白毫寺へ。
ずっと読んで下さっている方はよくご存知のあのお寺(笑)
また行きますよ!
勝手知ったるいつもの道。
いつもの石段を上がるが、山門の先の例の萩の木はきれいスッキリ剪定され
また今年の秋の花を楽しみにする。
目の前をネコちゃん通過
五色椿は3月後半ぐらいからとのこと、ぜひ見てみたいのでタイミングを見計らい
また訪れよう。
どうもこちらのお花とはご縁が・・・いやきっと見れるでしょう!
今日は歩くので、いつもの場所でたそがれている時間がなく階段を下った。
階段下を左に続く東海自然道から行ってみることに。
この道に出たのが間違いだった。
この先、すぐ通行止めになっているがマップでは迂回路があるとなっていたので行ったのだが、よくわからず適当に下ったら結局下の同じ道に出て意味がなかった。
まあ綺麗な紅白梅が見れたからよしとしよう。
が、ここからもちょっと迷い、車道沿いにずいぶん先まで行ってしまい
こりゃおかしいぞ・・・と戻り、通り過ぎた円照寺のサインで道確認。
畑の細道だった。
畑の道を抜け、集落の中を通る橋のたもとでいいもの見つけた!
大物烏瓜軍団!
川に落ちないように、端の方の蔓をズルズルと引っ張って2コほど捕獲。
これには面白いオチがあるので・・・お楽しみに笑
この道にあった看板
カーブの内側は神社の杜だった。
この八坂神社の付近一体を鹿野園という。
その名の由来がなかなか興味深い
インドのサールナート(釈迦が悟りを開いた後、鹿が多く住む林(鹿野苑)の中で初めて教えを説いた初転法の故地とされる)に地形が似ていて名付けられたという。
鹿野園(梵福寺)(鑑真僧正の弟子の善謝が開いた)
忍辱山(円成寺)
大慈仙(薬師寺)
誓多林(万福寺)
菩提山(正暦寺)
これらも全てインド由来の名で『北大和五山』と呼ばれた。
知りませんでした。
深いぞ。
面白いぞ。
実は乗り遅れたバスで行きたかったのは円成寺だった・・・
こちらには、まだ呼ばれていなかったということ・・・
八坂神社を過ぎてすぐに池があり、その前のベンチで盆地を眺めながら一休み
池端の道の先の獣よけゲートを入る道と、その横の近道と正面の竹の道に別れる。
もちろん竹の道でしょ!
少し登ったところにあるのが不動明王堂
竹林を出ると閑散とした自衛隊官舎が並ぶ道に出て、またすぐ小道に入る。
この藤原という地名から、やはり飛鳥時代の遺跡があったよう。
道沿いに現れる案内板を読みながら、次々に出てくる歴史情報に
頭パンク状態・・・宿題が増えてく増えてく
飛鳥時代から室町へ行ったり平安時代に戻ったりと忙しい!
この北の山辺の道にも所々に万葉歌の石碑があります。
こちらは面白いのが、様々なスポンサーが各碑ごとに違い
揮毫者や制作者(会社)などが記されている。
この万葉碑があったのが嶋田神社という神社
境内に入り、拝殿の奥に見える本殿に驚いた。
説明を読んでなるほど!
そういう本殿の払い下げ制度があるのですね笑
嶋田神社から西へ下りていくと、今度は天皇陵が登場。
『八嶋陵 崇道天皇』
さて、崇道天皇、どなた様でしたっけ??
こちらは早良親王と呼ばれた方でした。
光仁天皇の皇子だったが、出家し親王禅師と呼ばれ東大寺の良弁の後継者となるほどの高い地位にいた。
その後兄桓武天皇の即位とともに環俗し立太子されるも、藤原種継暗殺に関与した罪に廃され、絶食して没したという親王だった。(この死には諸説ある)
なぜ天皇陵かというと、親王死後周辺の人物の病死や不幸が続いたり、疫病、洪水などが次々に起こり、これは祟りということでその怨霊を恐れ鎮めるための儀式が行われ、崇道天皇と追称されたという。
先程の嶋田神社も親王を祀っている。
柵を入ると、そこはまた竹の道
八島地蔵尊と石仏たち
森を出ると整然とした道になり、そのさきにあるのが
圓照寺
こちらは非公開のお寺
宗派 臨済宗妙心寺派の尼寺
山号 普門山(ふもんざん)
開基 大通文智(後水尾天皇の皇女)
斑鳩の中宮寺 佐保路の法華寺 と並ぶ大和三門跡
遠目で見ただけでも美しい佇まいがうかがえる。
円照寺を終点と思っていたが、すぐそばに魅力的な道があったので引き込まれていった。
すると右手に苔むす石段
そこは西国三十三所霊場だった。
お堂に向かって左側に、三十三のミニチュア観音様の石像が並んでいた。
なんだかとても不思議な場所だった。
ふぅ〜と呼吸して、その場を離れた。
小道を抜けると舗装された道に出て、大きな池が目の前に。
竜王池
池の中に小さな社があり、これまたちょっと謎めいたなんともいえないところ。
案内板を見ると、大川池古墳となっている。
古墳の堀の一部だったよう。
この舗装道を登ると正暦寺にたどり着く。
迷ったが今日はここまでにした。
正暦寺から南はまた改めてじっくり歩きたいので次の機会に取っておきます。
帯解駅まで西に歩く。
途中、山村町バス停付近で北方面を見ると・・・
ここからもしっかり見えるのが、興福寺の五重塔。
さすが奈良盆地!
そして今日歩いた高円山周辺の山の姿
あの山辺を歩いた。
帯解駅の名の、帯解寺(おびとけ)
サクッと参拝
後ろには若いご夫婦が安産祈願に並んでいて・・・
こちらは何祈願でもないので、さっさと退きます笑
元は霊松庵といい、空海の師である勤操(ごんそうによって開かれた巌渕千坊の一つであったというから、これまた頭フル回転
勤操 大安寺で信霊・善機に三論教学を学び、千僧度者に選ばれた石淵上人・石淵僧正とも称される。
古くは文徳天皇后の染殿皇后から徳川秀忠の正室、江などが
そして上皇后美智子皇太后も雅子皇后も安産祈願を行っているというお寺。
納経所前には腹帯?っていうのかな?そんなのが販売されていた。
ここから駅はすぐ
ということで、当初の予定とは違う道を歩くことになったが
この北の山辺の道も、ずっと歩きたいと思いながらなかなか足を運べずにいて気になっていた。
まだその半分ほどだが、なかなか面白いところが多く、南の山辺の道と
似てるようでまたちょっと違った時代背景のお寺や神社などが多く
復習が大変で記事にするのに時間がかかってしまった。
いまだに地図と各所の詳細を見比べながら勉強中。
この北山辺の道もかなり渋い道。
でも古く広く深く掘ってるとキリがなく出てくる歴史の話に、
ずぶずぶハマっていく・・・
今回もかなり長くなり、最後までお付き合いいただきありがとうございます。
と、言いたいところですが・・・まだおまけが・・・笑
大烏瓜、ビニール袋に入れてバックパックに入れて帰ってきたが
家で開けてみると、一つがブチュと潰れてしまっていた。
ん・・・そうだ!
あれを見てみよう!!
アレですよアレ!
すると出てくる出てくる、見事なアレが!
すごいですよ!
何か模様まで施されているように見えるではないですか!!
全部取り出して洗ってみた。
数えると32個。
きっともう一つどこかにあると・・・信じる。
33のラッキー小槌たち
きっと今日バスに乗り遅れ、山辺の道を歩く事になり、この烏瓜に出逢い、
バックパックでつぶれ、そして出てきたコたち出逢う。
そういうことだった!
あのシワシワの小槌で終わってはいかんと、大黒様からの導きだった・・・
そう思う事にした。
今度こそ最後までお付き合いいただき感謝!!
重なる歴史の古の道を歩いた
いただいたサポートは古道活動に使わせていただき、歩いた記録をお伝えしたいと思っております。よろしければよろしくお願いいたします。