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オンラインで知り合うって、対面で知り合うのと違うの?とかいうお話。

私は今、グローバルな環境の会社に勤めている。会社の公用語は英語で、経営陣も外国人がほとんど、社員の半数が外国人で、アメリカやイギリスだけでなく中国、インド系、中東、その他ヨーロッパ人などさまざま。日本に住んでいる人ばかりでなく、世界各国、現地から働いている人もいる。顧客も日本人だけでなく世界中にいる。関わる人皆かなり多国籍である。幅が広い。

そんな環境にいると、日々発見がある。日本ではわりと「常識」であることが、ある外国人の中では全くそうじゃなかったりするし、それどころか、「非日本人たち全体」(世界)からみたら常識でもなんでもなくて、日本人だけがやるよね世界的に珍しいよねその慣習、なんてこともたびたびある。日本は同質性の高い島国で、恵まれた長い歴史の中で独特な文化を保持しているんだなあ、日本の常識は外国の常識なんてことはなく、ましてや世界の常識ではないんだなあと日々気付き、実に興味深い。

そんな気付きの中の一つに、外国人たち(とくに私の知る欧米系)はおしなべて日本人より「やり方(How)」を問わない傾向にある、というのがある。仕事でも、現状認識と材料とゴールを確認したら、あとはやり方考えて自分でやってねよろしく、という指示が多い。例えるなら、いるべき時間に目的地に着いているなら、バスでもタクシーでも徒歩でも自分が責任取れればOK!という感じだ。対して(我が社の)日本人は、まずこれやってあれやって、その次これやってね。この手順を覚えてね。結果はついてくるから。と、「やり方」を大事にすることが多い。みんなバスを使ってるからとりあえずバスを使おう、みたいな感じだ。

またビデオ会議。コロナの影響で今や日本でもかなり一般的になったが、我が社ではその前からバリバリやってた。というか、同じフロアの人々の会議でも、外国人たちは「それぞれ自分のPCで議事録開けるし便利じゃね」といった感じでみんな各々自分のデスクのモニターを見て、オンラインでやってた。「会議で情報共有・議論を行う」という目的が達成できれば、顔を見て直接かビデオ会議か、How、つまりやり方には拘らない。時々センシティブな話題の時は対面の会議で話すこともあるけれど、重視する度合いは圧倒的に一般的な日本人より低い。コロナでビデオ会議が広がり始めたとき、日本では「ビデオ会議はやりにくい」「関係を築きにくい」という声が、ニュースやTwitterやその他で、特に年長者や創業年数の長い大企業を中心に聞こえてきた。「同じ場所の空気を吸って一体感を得る」ことを、日本人はわりと大切にしてきているのだ。ビデオ会議好きの日本人も対面でのコミュニケーション好きの外国人もそりゃいるだろうけれども、全体の群として見たときに明らかに嗜好に差のあるところだ。

以前仕事で大きな病院を訪ねたとき、いろんな製薬会社のMRさんたちが先生たちの研究室の前に立って待っているのをみて、同僚のオーストラリア人は、(決して馬鹿にするふうではく、)実に興味深そうに「Funny(おもしろい)」と言っていた。日本ではああやって待つことで誠意を見せるんだよというようなことを説明し、オーストラリアではどうなの?と聞いたら、今時の薬剤の営業は全部メールだと。製薬会社が医師たちに一斉にメールをして、必要だと思うものを選んで医師からアポをとる。そして日時を設定してオンライン会議を行い、営業担当が医師にプレゼンテーションをする、と。「昔はオーストラリアも直接会ってたけどね。時間もかかるし非効率的。今は対面はOld style(古いやり方)」ということを言っていた。日本でまだわりとよく見られる、直接会って関係を構築することから始まる営業は、今ではかなり少ないらしい。

最近話題の、大学などでの「オンライン授業」も、海外にはごまんとある。知り合いで現在進行形で受講している外国人も数人知っている。働きながら修士をとれることを謳い、オンラインの動画視聴とテキスト熟読、課題提出で通える大学は本当にたくさんある。

念のため申し添えると、私はここでオンラインと対面どっちがいいとか悪いとか言いたいわけではない。時代の流れではオンラインに移行しているが、営業などは、人対人の日本のやり方のほうがある意味社会全体の結びつきは強くなって、本来幸せなやり方かもしれない。利点と欠点はそれぞれにあるだろう。ただ、いかなるときもどっちかじゃないといけないという固定観念は、手放したほうがいいと思う。

さて、そんなわけで、この会社で働いているうちに「目的が達成できるのならばHowは問わないよ」(またしても念のため補足すると、汚いやり方でもいい、と言っているわけでは決してない。バスで行くかタクシーで行くのかは自由だが、無賃乗車や無免許運転でもいいという訳ではない。)という考え方に、私もいつの間にかだいぶ慣れていった。目的や状況によって電話とメールを使い分けることはあれど、電話じゃないとダメってことはないだろう。今までのやり方と違うけど、よりよい結果が得られるからいいだろう。みんなとやり方が違うけれど、誰にも迷惑かけないからいいだろう。柔軟に、より主体的に選ぶようになってきた。

ところで、私は学生時代、「大事な知り合いは絶対に今メインで所属する場所で対面で知り合った人主義者」であった。親友はクラスで一番仲のいい子。部活や習い事の友達はその次。恋人も、絶対学校とか職場とか、所属するところで知り合った人。ネットで出会うとか有り得ない。そんな感じであった。

それが、年齢を重ね人間関係も狭く深くから広く浅くになり、今の環境で働き、さらにwithコロナ時代となってSNSでの交流が広がってきた今、考え方が変わってきた。たとえば今やnoteやTwitterは、私がもっとも素でいられる、本音で語る場所のひとつである。だとしたら、そこで語った私の言葉に共感したり感動してくれたりした人がいたら、それは対面での知り合いと同じくらい強い、心のつながりかもしれない。毎日のようにお互いの心中を報告するなら、仲の良いクラスメートくらいの心理的距離の関係かもしれない。昔ひとりいた親友の役割を、SNSでつながったたくさんの人たちが少しずつ担ってくれているようなもので、それはもう無数の親友がいるのと同じなんじゃないか。

もはや、対面でコミュニケーションしなければ心が通じない、なんてことはない。確かにオンラインだと対面より伝わりにくいものはある。でも、全く伝わらない、オンラインはダメ、なんてことは決してない。対面で会ったことがないなら人間性がわからない、なんてこともない。出会ったプラットフォームや、オンラインかオフラインか、口頭で伝えるか「いいね」をつけるか、そういう「How」は問わず、とにかく人と心がつながることに意味がある。その考え方のほうが、これからの時代、特にwithコロナの時代には、生きやすい気がする。オンラインで知り合って幸せになるカップルも、今後どんどん一般的になっていくだろう。「こっちじゃなきゃだめ」でなく「どっちもいいけど適切な方、好きな方を自分で選ぶ」、そんな社会になっていくだろう。

袖すり合うも他生の縁。ちょっとだけでも、物理的に遠くても、どうやって(How)伝えたかにこだわりはしない。目的は心がつながること。これからも大切にしていきたい。

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