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シッダールタ

ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」が好きです。

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毎日、川へ犬と散歩へ行っています。

散歩へ行くことで、犬を通して、人と会話ができることが、とてもうれしい。

近所の豆腐屋のおじいさんが、黒い犬を散歩させていた。

私はこのおじいさんを、小学生の頃から知っている。

豆腐屋にも行ったことがあったけど、その豆腐屋は、今はもうない。

81歳とか、言っていたかな。

豆腐を売ってた元気なおっちゃんだったけど、今はおじいちゃん。

たった2キロくらいの小さな犬の糞を取るために、

それはそれは大きな”タモ”を持っていた・・・。
蝉が1000匹入りそうなくらいの。

「小学校3年生の頃、もう3月になったら、この川に飛び込んどったんや」

って、

今は汚染されて泳ぐことなんて考えられない川を見て、教えてくれた。

「もうずっと、この川で育ってきたからな、わしらは・・・」

・・・川はずっとここにある。

豆腐屋のおじいちゃんとの会話の後、

ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」を思い出す。

私の大好きな本。

ヨガの哲学が好きなら、きっと、誰でも好きであろう。

この水は流れ流れ、絶えず流れて、しかも常にそこに存在し、
常にあり、終始同一であり、しかも、瞬間瞬間に新たであった!

ヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」


豆腐屋のおじいちゃんにとっても、

川は、そんな存在だったんだって、

言っている気がした。

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「常にそこに存在するもの」(プルシャ)

「変化するもの(常に新たとなる)」(プラクリティ)


川が、「それ、そのもの」を、シッダールタに表現するところ・・・。
好きなシーンのひとつです。


年を重ねた豆腐屋のおじいちゃんとの会話で、

「いつも川と共にあった」って話に、

変わらないもの(プルシャ)と、

変化するもの(プラクリティ)の、

「共存(2分化されない姿)」を感じて、

そういう時は、ちょっと、切なく、優しい気持ちになる。

最近、こういう時間が、何よりも好きだ。


小説の中で、シッダールタは、

沙門(出家して修行する仏教徒)をやめ、

商人になり、遊女と関係を持ち、

酒や賭博をするようになっていく。


その姿は、

純粋で志が高かったシッダールタからは、

想像がつかないようなもの、であるような気もするけれど、


彼は本当に若い頃から、

冥想も、修行も、

「我であることの苦悩からのしばしの離脱、

苦痛と人生の無意味に対するしばしの麻酔にすぎない」


と言っていた。


そんな逃避や、しばしの麻酔なんて、

お酒を数杯飲んだりすれば、

一時的に、「我」を忘却することができるんだから、

修行でも、お酒での忘却も、

どちらも「無我」っていう意味では、

違いはないではないかと・・・。

さらに、

自分たちの崇拝する師が、六十になっても、

どれだけ修行しても、

涅槃の境地に達してないのは、なぜだと思うか!と・・・。

(苦笑)。


自分たちは、修行することで、
「自分を欺く」技巧は覚えるが、涅槃には達しない、と。

それは、修行する者にとっての、「苦」として伝わってくる。

だから、彼は沙門をやめて、お金持ちの商人になるのだけれど。

そこでも、彼は、苦しいのです。


苦しいから、そんな生活を捨てて、川に、たどり着きます。


シッダールタは、

彼の自我(エゴ)が、

瞑想や禁欲という精神性の中に入り込んでいたと、言っている。


断食や苦行によって、

その自我(エゴ)を殺そうとしていた、と。


そしてその自我(エゴ)は、どんなことをしても殺せなかった。

だから、彼は俗世に入り、

享楽と権勢、

女と金にふけることで、

彼の内の司祭と沙門を、殺さなければならなかったって!!


すごいなって思う。


それはそれは、ヘルマン・ヘッセのこの小説、

すごい内容だと毎回読むたびに、感嘆してしまう。


私たちの日常生活は、
シッダールタのそれのようなものではないけれど・・・。


我を殺したくなったり、

忘却したくなったり、

時の流れを感じながらも、

変化するものと、変化しないものを、

同時に感じたり、している。


それは、自然が教えてくれる。


人の生も、死も。


自然は、美しく、切なく、悲しい。

そして私たちに、慈悲深さを、与えてくれる。


慈悲深さは、自分でつくるものではなくて、

与えられるものであると、感じるのです。

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あれから、豆腐屋のおじいさん、見かけなくなりました。

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