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PTA役員をやって、変わったこと、変わらなかったこと。

「役員」は恐怖の響き。

「PTAは面倒くさい」とか、「役員決めがゆううつ」とか。子どもが小学校にあがる前から、そういう話をよく耳にしていた。先輩ママたちの会話に「PTA」「役員」が出てくるたび、未知の世界への恐怖と不安ばかりが募る。できることなら、やりたくない。人前に立つのも苦手だし、保護者の代表的存在として動くのもおこがましい。なにより、仕事と家事、育児であっという間に1日が終わるのに、そんなことにかかわりあっている時間はない。スルーだ。なんとなくスルーしてやり過ごすのだ。

当時、まだ若かった私はそう思っていた。

けれども、わが子が入学した小学校は子どもの数が少なく、1学年は1〜2クラス。兄弟で通学している子どもも多いので、当然、保護者の数はもっと少ない。入学直前、「子ども一人につき、最低一度は役員をすること」が暗黙の了解になっていると知る。

役員を免除されるのは、小さな弟や妹がいる場合や、家族の介護をしている場合のみ。仕事をしているとかしていないとか、父子家庭とか母子家庭とか関係なく、誰もが役員をやらなければいけないという。

私には二人の子どもがいるが、長男が小学校に入学したときは、まだ次男が2歳と小さかったため、役員の話はこなかった。その後も手をあげてくれる人がいたりして、役員をやらないまま長男が6年生、次男が入学という年を迎えた。

長男が小学校生活最後の年。もう、やらねばなるまい。


役員になって、学校新聞をつくってみた。

どうせやるなら、ぐずぐずしない。なんでもさっさと済ませたい。そんな性分の私は、1クラス2名の役員選出時、もめる前に手をあげた。そして、色々な部がある中で、誰もが「時間をとられるから」と敬遠する広報部に立候補した。学校新聞を発行することが主な活動だ。

広告業界で働き、社内報なども大好物の私にとって、学校新聞の制作はワクワクすることでしかない。役員は嫌だけど、広報なら全然オッケー。幸い、「一緒にやりたい」と親しい友達を中心に立候補してくれて、学校新聞を根本から変えよう!と体裁も内容もすべて一新。とても良いものができた、と思う。

発行を終えれば居酒屋に集まって打ち上げもした(もちろん、PTAのお金など1円も使わず、それぞれの自己負担)。次の号の企画会議では、新聞の内容よりも、打ち上げをどこでやるのかに終始したりして。

学生時代の部活動のように楽しかったし、新聞をつくるための取材や原稿のやりとりを通して、それまで知らなかった学校のことを知ることができたり、校長や教頭、他の学年の先生方とも話をすることができた。また、参観でも何でもない日の、子どもたちの様子を見ることができたのも大きな収穫だった。

広報部全員が役員初心者だったが、年度末に役員を終えるときには、みんなと「楽しかった」「役員になってよかった」「広報でよかった」と話したことを覚えている。

なんだ。誰もが「役員になったら地獄」みたいに言ってるけど、実際はそんなことない。それが素直な感想だった。


そしてふたたび、役員になる。

そこから月日は流れ、次男が小学6年生になったとき、もう一度役員の順番が回ってきた。そのときは、また同じ広報ではおもしろくないと思い、今度は「生活安全部」という部を選んだ。週に一度の通学路での立哨をはじめ、マラソン大会や地元のお祭りなどの際、安全確保や見回りを行うという役割だ。

久しぶりの役員。前向きに頑張っていこうと思ったものの、広報との違いに愕然とした。みんなで集まって作業をすることもなく。決められた日に、それぞれが決められた場所に立ち、ひとりで子どもたちを誘導したり、見守ったりするだけ。私は孤独感にさいなまれた(大げさ)。

ああ、広報はあんなに楽しかったのに。おまけに朝の立哨のために早く起きないとだめだし、夏は暑い、冬は寒い。雨が降っても、雪でも黄色い旗を持って子どもたちを誘導しなければならない。

やっぱり、役員なんてやるもんじゃない。あれほど楽しかったのは幻想だったのか。それでもなんとか走り回って役員の仕事をこなし、任期の1年を終えようとしていた。


ふつふつとわいてきた思いと花束と。

次男の卒業式の数日後に、わが家は引っ越すことが決まっていた。離婚して数年が経ち、子どもたちと住んでいたマンションを売却することになっていたのだ。移転先は徒歩でも行ける距離だったが、引っ越し費用などでとにかくお金がなく、500円でも、1000円でも惜しい状況だった。

それなのに、いよいよ卒業というときになって、ふつふつとわいてきた思いがあった。毎朝自分の子どもたちが通学するルートに立って、誘導してくれていた地域の方、おふたりに何かお礼がしたいと。

長男と次男、あわせて11年間の小学校生活の中で、ほぼ毎朝欠かさず旗を持って、安全に登校できるように誘導してくださったことにお礼がしたい。でも、充分なことができるほどのお金もない。

私はおふたりの方に、花を贈ることにした。卒業式の前日。近くの花屋さんに、500円ぐらいで花束ができないかと相談に行くと、忙しかったのか、それとも500円の客なんて相手にできなかったのか、冷たい扱い。「もう、いいです」と言うと急に態度を変えてきたけれど、そのまま店を出た。500円の花束なんていう客、迷惑なのかな。もしかして、そんなものをもらっても、誰もうれしくないのかも。

諦めようとも思ったけれど、もう1軒、別の花屋に行ってみた。「卒業するので、毎朝子どもたちを誘導してくれたおばちゃんふたりに、500円ぐらいの花束を贈りたいんですが…」と事情を話すと、そこの店員さんは、「それはきっと喜ばれますよ!」と花を選び、明らかに500円よりも値がはりそうな花束をふたつ作ってくださった上に、翌日まで保管する方法も教えてくださった。もううれしくて、涙をこらえながらその店を後にした。

そして翌日。卒業式を終えてから子どもと一緒に、立哨をしてくださったおふたりのご自宅を訪ね、それぞれに小さな花束を手渡した。

「お陰様で今日、卒業式を終えました。長い間、登校を見守っていただいてありがとうございました」と。

おふたりとも、喜んで受け取ってくださり、ようやく「ミッション達成!」という気持ちに。さらに、その日のうちに同じマンションの方が、「◯◯さん、花束をもらったって、感激してはったよ」と教えてくださって、なんだか申し訳ないような気持ちにもなってしまった。たった500円の花束で、11年間のご恩をお返しできるとはとても思えないけれど。気持ちだけは伝えられたのかもしれない。


経験したからこそ、みえたもの。

もともと、地域の人が通学路で見守り活動をしてくださっていることは知っていた。ありがたいな、とも思っていた。けれども、「お礼がしたい」という気持ちにまでなったのは、やっぱり自分自身が同じように通学路に立ち、地域の人たちと同じ体験をしたからこそだ。役員をやっていなければ、そんなことも感じないまま卒業していたことだろう。

子どもたちが小学校を卒業した後、中学、高校では役員をすることはなかったけれど、役員の方々に対して、自然にねぎらいの言葉をかけることができたし、バザーの協力など、自分にできることもさせていただいた。

私は元来、「自分さえよければ」という自己中心的な性格だ。そんな私が役員の人や地域の人に対して、わずかながらも気遣いができるようになったのは、やはり役員を経験したからだろう。

そういう意味では、役員をやる前とやった後では、意識が大きく変わり、少しは成長できたと思っている。PTAというのは、そもそも自分の子どもが通う学校のために必要なことを、先生と保護者、地域が協力しながら行っていくというもの。それはつまり、自分の子どものためでもある。そう思えば参加して当然という気持ちにもなれたし、活動に奔走する背中を子どもに見せたいとも思えた。

それぞれに事情もある。学校によってシステムも違う。だから、PTAに参加しない人を批判するつもりはない。

ただ、お声がかかったのなら、チャンスがあるのなら、できない言い訳を考える前に、一度やってみてもいいんじゃないかなと。とかく悪いイメージばかりの役員だけれど、楽しいこともある。人脈もできる。

そんなことを若いお父さん、お母さんに知ってもらいたい。そう思い、ひとつの例として今回この記事を書かせていただいた。

ただし、役員をやってみても変わらなかったのは、「やっぱり面倒くさい」ということ。時間も労力も必要だし、役員をやらなければ、その時間をほかのことに使えるのは間違いない。それでも、それ以上に得るものは大きいし、やってよかったと数年経った今でも思っている。

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