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月の光はなにいろ?

久しぶりにnoteを開いた。
親戚に誘われて、たまたま行った演奏会があまりにもすてきだったので思わず開いてしまった。

プログラムはシューベルトにベートーヴェン、そしてラヴェルの「夜のガスパール」。

「夜のガスパール」
もうこの響きだけでうっとりしてしまう。
ベルトランの同名の詩「夜のガスパール」からインスピレーションを受け、ラヴェルが作曲したのだという。博士課程2年目に履修した比較文学の講義でスペイン文学専攻の先輩といっしょに講読した、思い出の作品だ。積ん読本の林立する雑木林のような研究室で、本の木立の隙間から先輩と先生の横顔を眺めながら、散文の世界を逍遙した。

さて、演奏会に話を戻す。
一曲目のシューベルトは「楽興の時」。ひとりごとのようなひそやかな響きが、演奏者のちいさな秘密の花園を見せてもらっているような、親密な空気をただよわせる。
二曲目はベートーヴェンの「熱情」。これまでいろんな演奏家の「熱情」を聴いてきたけれど、聴衆をなぎ倒すかのような「熱情」でもなく、なにかを強く訴えかけてくるような「熱情」でもなく、なんのてらいもない、心の底からそのまま出してきたような、まっすぐな「熱情」を感じた。朴訥として無駄な力を削ぎ落とした響きに、救われるような心持ちであった。
休憩を経て三曲目、ついに「夜のガスパール」である。「水の精」「絞首台」「スカルボ」と題された三曲からなる作品で、それぞれ元となった散文詩のストーリーが表現されている。「水の精」では、湖に棲む水の精が、雨とともに若者の寝室の窓を訪れる。窓を叩く雨の音、水滴の間に映る水の精の半透明の表情までもが浮かび上がってくるような演奏だった。
「絞首台」は、夕陽に照らされた絞首台の風景を描いた作品で、鐘の音のような響きから始まる。鬱蒼とした木立から、丘の上に聳える絞首台を眺めているイメージが脳裏に描き出され、ぼんやりと聴いているうちにいつの間にか私は、『月に吠えらんねえ』の天上松の縊死体を思い出していた。近代詩の作品からイメージされた人物たちが暮らす、□街の外れの松にぶら下がる縊死体は、なにを表していたのだっけ。
いたずら好きの地底の精「スカルボ」が縦横無尽に暴れ周り、急にいなくなったかと思うと今日のプログラムはすべて終わり、気がつくとアンコールの曲が始まっていた。

アンコールはラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、そしてドビュッシーの「月の光」。

「月の光」は、この地上で最も好きな曲といっても過言でない、わたしの憧れの曲だ。この曲を聴くとき、いつも思い出すのはエミール・ガレの「月光色ガラス」である。かぎりなく透明に近い、うすい青色をした美しいガラスだ。元邸宅であった美術館の一室で、夕暮れの空を映した「月光色」のやさしい、うすい青色を思い出すのだ。やさしく、ひそやかなピアノの音に導かれるように、わたしの脳裏にはこの色がひろがっていった。

先週のわたしは、さんざんであった。
忙しさの一段落した週末、急に仕事に行けなくなってしまったのだ。一度だけ、朝、涙が止まらなくなってすこし休みを取った日があったが、この週末はどうしても涙が止まらず、体も動かず、にっちもさっちもいかなくなってしまったのであった。あまり信頼していない上司に電話口で号泣しながら休む旨を伝え、ありったけの慰めの言葉をかけられて2日休んだ、翌日の演奏会であった。

わたしのことを何も知らない、わたしも誰のことも知らない、全くの他人のたくさん集まるところへ行って、たくさんの無関係のひとびとと、たったひとりの奏でる音に耳を傾ける。これだけの体験に、こんなにも心を救われることがあるとは知らなかった。

まだほんとうに大丈夫になったのかはわからないけれど、なるべく日常から離れる機会を増やしてみよう。

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