赤瀬川原平 『老人力 全一冊』 ちくま文庫 その2
なんだか話が通じなくなっているなと思うことが多い。いや、多くはない。そもそも人と話をする機会があまりない。それでも、会話ではなしに他人の話を聞いたり読んだりするなかで、引っ掛かることが多くなったと感じている。さすがに自分は「世の中のグレードが落ちた」と言えるほどの人間ではないのだが、「グレード」と呼ぶかどうかは別にして、「大丈夫か」と心配になることは増えた。
「口コミ」というのは昔からあったが、今はネット上で話題になるとすぐに人が集まって、そして多くの場合、すぐに熱が冷める。世間の話題を自ら確かめてみようという気になることに何の不思議もないのだが、尋常とは思えない買い漁りのようなことが起こったり、その店の営業に支障が出るほどの客が短期間に集まるというのは何故だろうか。それが飲食店なら、味覚の好奇心というよりは話題になっていることを体験していることの安心感とか自身の存在証明である場合が少なくないようだ。ただ写真を撮って、殆ど手をつけずに残して去っていくというケースも間々あるらしい。ネット上のページビューの数字が興味の対象であって、それを集めることでしか存在を確認できないというようなことになっているのだろうか。
しかし、そういうことを責めることはできないと思う。生活のあらゆることが数値化されて評価を受ける現実の中で、評価の対象よりも評価の数字の方に関心が偏るのは自然なことだろう。幼年時代、学校では成績というデータ、受験は志よりも偏差値に象徴される自分の位置でほぼ決まり、新卒の就職も一応面接はあるものの実態としては妙な形式のデータで振り分けられる。就職した後は年収だとか所得といった数字が、その人の「信用」としてついて回る。そうした流れのようなものに乗ってしまうと、実体の無い数字が実体だと思い込んで囚われてしまう。囚われて不幸なことになるのは当然だろう。
本能としての生存欲のようなものに従って、その数字だけを頼りに自分で妄想した「社会」とか「世間」の座標上に自分を位置付けて一喜一憂する。妄想の座標であり、「社会」なので、そもそも実体が無く、自分を位置付ける場所を見出せずに自沈する者もいる。妄想するのは勝手だが、まずは己の手足を動かして様々な生活の現場を実感しないことには己を否定する妄想から抜け出ることなどできるはずがない。
電池が切れたので動かない。ソフトが古くなったので動かない。ナントカが無いから動かない。そんな今時の生活の道具と同じように、些細なことで動けなくなってしまう人が多くなった気がする。老人になる以前に生存不適になってしまっているかのようだ。
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