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赤瀬川原平 『老人力 全一冊』 ちくま文庫 その1

先日、noteを読んでいたら本書のことを上げている人がいて、また読んでみようかなと思って再読した。先もないし銭もないので、なるべくモノを増やさないようにして暮らさないといけないと思っている。本を買うときには何度も読み返すつもりで買わないといけないと思っている。思ってはいるのだが、つい「これくらいなら」と思って狭い団地の部屋を更に狭くして「困ったな」と思いながら生きている。やはり、機会をとらえて今あるものの再読を心がけないといけない。

本書の元の単行本は大ベストセラーで「老人力」は発行された1998年の流行語大賞トップテンに選出された。因みにこの年の大賞は「ハマの大魔神」「凡人・軍人・変人」「だっちゅーの」だそうだ。

言葉というものは独り歩きをするもので、「老人力」も本書での記述から離れて広まった結果の流行語でもあるのだが、「老人」がそれだけ社会の中で関心を集め易い状況になっているということでもあるのだろう。「老人」の印象は、たぶん「なんとかしないといけない」状況から「それがどうした」という開き直りの方向に進んでいる、と老人の私は感じている。つまり、他人事から主流派当事者的感覚になりつつあると思う。当事者として愉快だが、他人事として世間を見たときに、「本当にいいの?どうなっても知らないよ」とつい余計な心配をしてしまう。前妻との間に娘がいて、たまに会って食事をする時に、それとなくそんな感じのことを言うことはあるが、だからといって彼女個人に何ができるわけでもない。

本書には一応「老人」の定義のようなものが書かれている。

 そもそも老人になるというのが、小、中、高、と学校へ行って、足りない人は大にも行くが、その間バイトをしたり、人によっては刑務所に入ったり、結婚したり離婚したり、倒産したり、夜逃げしたり、うまくいったとしても糖尿病になったり、肝硬変になったり、歩道橋を渡ったり、立ち食いそばを食べたり、立ち小便を人に見られたり、とにかくありとあらゆる苦労の末にやっとなるのが老人である。
 あ、老人か、なるほど、恰好いいなあとかいって、五万円払って老人になる、というわけにはいかないのである。
(22-23頁)

つまり「ありとあらゆる苦労」を重ねた眼から見えた世の中のあれこれについてのエッセイが本書ということでもある。今となっては本書を最初に読んだのがいつなのか記憶にないのだが、本書の奥付に「二〇一四年十一月十日 第九刷発行」とあるので、赤瀬川が亡くなったことを知って読んでみようと思ったのかもしれない。新本で購入しているので、手にしたのは52歳の時だ。当時、読んで何を思ったのかは記憶にないが、当然、今と同じではなかっただろう。今、赤瀬川が書いた時の年齢で読むと、腹の中にスーッと入ってくる。

やはり思うのは、世の中の奇妙についてである。

いまの世の中は脳社会とかいわれていて、どんどん論理に覆われてきている。人々のそれぞれの感覚的思考が萎縮してしまって、安いから、得だから、便利だからというような論理だけでものごとが進み、好きとか嫌いは取るに足らぬものとして、どんどんゴミ箱に放り込まれている。(86頁)

最近のパソコンとかインターネットとか、ああいう社会的な道具は非常にコセコセしていますね。作業の順番ばかり気にして、間違いのないようにとか、そういう神経ばかり使っている。あれは社会の道具だから仕方ないけれど、人間の方は、ああはなりたくないですね。でも道具はというのは人間に伝染るんです。(47頁)

 若い人たちは情報社会にひたってるんですね。情報社会って、みんなケチになるんです。情報を全部抱えこもうとするから、ぱっと捨てられなくなる。僕ももとはケチなほうなんだけど、老人力って、捨てていく気持ちよさを気づかせてくれるんですよ。ボンボン忘れていくことの面白さ。
 情報的にスリムになると、自分が見えてくるというか、もとにある自分が剥き出しになってくる。反対に情報で身の回りを固めてると、情報が自分を支えてくれる代わりに、生じゃなくなってくるというか、自分が何だか干からびてくるんですね。(195頁)

 僕も貧乏性だけど、計算機もかなり貧乏性ですからね。あっちこっち横目ばかり使って、目つきが悪いようなところがある。キョロキョロして一番いいところを狙ってるような、ちょっと浅ましいっていうのかな、ヘタをすると、そういう気分につながりそうな回路が開いてる。昔は品格とか志みたいなものが尊ばれたから、計算で動くなんて軽蔑されることだった。それがいまはとにかくプラス志向だから、計算ずくでもなんでも勝利すればいい、みたいになっているでしょう。でも計算だけが生きて、人間が死んでしまったら元も子もない。だって自分の人生を楽しめるかどうかだからね、計算で果たして豊かに生きられるのかなって。(202頁)

今、「少子高齢化」というのが問題になっているのか、問題にしているふりをしているのか、いずれにしてもよく見かける言葉になって久しい。赤瀬川が言うところの「脳化」とか「計算」ということに徹すれば、他人と世帯を共にして暮らすとか、ましてや子供を作って育てるなんてことはリスクばかりが大きくて「コスパ」が悪いに決まっている。人生に「正解」があるとして、それが「計算」によって導き出される類のものであるならば、結婚などせず、まして子供など持たず、「アプリ」か何かでやりたいときにやって、その時々の目先の最適解を積み重ねるという行動を取るのが必然であろう。一方で、医学は生命を救うのが目的なので、その目的に向かって日々進化する。また、福祉は現代社会の当然の善なので、政治や行政は人々がその医学の恩恵を享受できるような仕組みを作る。当然、平均余命は長くなる。「少子高齢化」を解決しようと、保育園を増やしたり男女雇用機会の均等化を制度化したり、家事の外部化を図ったりしても一向に「成果」が現れないのは、これまた当然だ。「少子高齢化」は世の中の深いところの潮流の当然の帰結なのだから。

ついでに、近頃「サステナブル」ということが喧しく言われる。社会を支える情報化の道具類の寿命とか「サステナビリティ」については話題にならない。ほぼ一人一台所有するに至っている携帯情報端末は、売る側は2年程度での買い替えを目論み、買う側も、中には抵抗を試みる向きもあるが、それでも10年以上使うことはあるまい。数年のサイクルで機種を買い替えたことで生活の劇的な変化はあるだろうか。実態に特段の変化をもたらさないものに多大の資源が投入され、消費されている。もちろん、何を「変化」と感じるかは人それぞれだが、電話やテレビが一家に一台の時代から一人一台の時代になって、少なくとも人間が賢くなったとは思えない。ガソリンではなく電気で車を走らせるとか、無料だったサービスを有料にするとか、変化自体は世の中の所得獲得機会を提供する。その意味で社会に活力を与える。しかし、それが社会のありようとして生活者にとって好ましいかどうかは別の問題だ。

人間は社会を形成して生きる動物だ。社会には「正義」の大義名分が必要不可欠でもある。当然にその社会の規範は遵守され安心安全な生活が実現しないといけない。しかし、個人にとって社会が全てなのだろうか。個人の感じる豊かさとか満足があって、その実現のための調整執行機関として社会があるのではないか。そのあたりのことはもっと話題になってもいいと思うのだが、「世論」とか「理想」とかを問うはずのマスコミが機能不全に陥って久しく、政治も行政も「公」よりは「私」のほうにより強い関心を抱いているようだし、社会はいよいよ総徘徊総迷走時代に向かっているようにしか見えない。

余談だが、公務員が感染症対策の給付金詐欺で逮捕、起訴されたという事案がある。給付金を管轄する役所に勤務していた人たちが犯人なので、本人たちは受給の方法の事例を身をもって示したつもりだったという可能性もなくはないだろう。人の発想は所属する社会や組織の風土を反映するものだ。世の中は、迷走どころかお祭り騒ぎの時代に向かっているのかもしれない。

 抗菌グッズで解決するかというと、それは免疫力低下で更によたよたになるという現実がある。民主主義というのにルビを振ると、キレイゴト、となる場合が多いんですね。そのキレイゴトをぎゅうぎゅう詰め込んだお陰で、いまの子供たちはナイフ片手にふにゃふにゃしている。(126頁)

一人一台の情報通信端末を手にして誰もが気軽に世界に向けて意見を表明できる時代になった。マスコミはただの看板屋で、面白おかしく綺麗事を並べるだけの商売になった。それで商売を続けることができると思う方がどうかしている。


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