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岡野弘彦 『折口信夫伝 その思想と学問』 ちくま学芸文庫

手元の記録によると2014年4月29日に新宿武蔵野館で『神宮希林』を観た。樹木希林を語り部として2013年の伊勢神宮式年遷宮を描いたドキュメンタリー作品だ。その中で、樹木が岡野弘彦を訪ねる場面がある。映画を観た時は、その場面のことをあまり意識していなかった。岡野が歌人であること、戦時中に陸軍に応召して千葉県で終戦を迎えたこと、くらいしか認識できていなかった。戦争を生き抜いた人であり、友人知人を戦争で亡くした人でもあり、当時「神の国」とされていた日本が無惨に敗戦を迎えたことへの想いを、伊勢神宮についての映画の中で語らせることに意味があった、ということはなんとなくわかった。映画を観た頃は、短歌も俳句も詠んでいなかったので、岡野が歌人としてどういう人なのかということへの意識がまるでなかった。

時は下って2019年1月16日、外苑前にあった「ほぼ日の学校」で岡野の講義を聴いた。それに先立つ1月11日、その講義の予習会があり、そこで岡野が映画に出ていたことを改めて知る。予習会では『神宮希林』の2年後に樹木が岡野を再訪するところを収めたビデオも観た。そこで岡野は國學院予科での同級生である板倉とおるさんと共に陸軍特別操縦見習士官を志願するが、岡野の方は父親から厳しく諌められて志願を取り下げ、板倉さんは1945年4月21日に出撃されたという話を語っていた。岡野は板倉さんが出撃した4月21日にその発進基地があった知覧を毎年訪れていたのだという。

あまりにもしづけき神ぞ血ぬられし手もて贖(つぐな)ふすべををしへよ

岡野弘彦 第2歌集『滄浪歌』角川書店(1972年)

岡野は敗戦後、三重県の郷里に帰り、その翌日に伊勢神宮に参拝して詠んだのがこの歌だそうだ。戦前戦中、日本は「神の国」だと教えられ、戦況の悪化と共にその声がますます大きくなったのだという。しかし、生き残って伊勢神宮に詣でてみれば、何事も無いかのように静かな時が流れていた。その時に詠んだのが上の歌だそうだ。

その岡野は折口信夫の最後の内弟子だ。学者や歌人で「内弟子」というのも今の時代には妙に聞こえるかもしれないが、人から人へ内面や精神性に関わる何事かを伝えるのに生活を共にすること以外の方法があるとは思えない。しかし、現実は物事が断片化、データ化されていつでもどこでも誰にでも伝達可能な形に加工され、その授受が「教育」であるかのようなことになっている。

「師弟の間がただの知識の授受に終わるのなら、こんな功利的な関係はない」と言い切る折口の、真に身近な弟子に対する薫育は魂の教育で、近代の社会にそのまま通じるようなものではなかった。

421頁

のだそうだが、そういう意味では今は人間関係全てが功利的な関係になっている気がしないでもない。人を育てるはずの学校教育が成績という数値評価を軸に構成され、その学校は偏差値という数値評価を軸に階層化され、家庭での「しつけ」は学校での適合を軸に行われ、数値化された成績表や権威者たる先生の評価に一喜一憂したりする。学校教育の中身はその時々の権力の都合で決められる。

生身の人間は、生理的なところは数値化できるのかもしれないが、精神的なところまでも果たして数値化して評価できるものなのだろうか。尤も、本来できないことを無理矢理押し付けることで生まれる非喜劇がいわゆる「現実」とか「人生」なのかもしれない。そうであるとすれば、人の社会生活はその無理矢理からこぼれ落ちた無数の顧みられることのない要素に覆われた本来的に孤独なものとも言える。

人は自ら生まれることを選択できない。気がつけば自分がここにいるのである。それなのに、周囲からはああせいこうせいといわれて、その周囲との作用反作用の中でささやかな自己主張をしてはみるものの、あれよあれよという間に成長して衰弱して死を迎える。社会には自分が生を受ける以前から存在する秩序があり、それに従わないと排除される。しかし、その秩序は絶対的なものではなく、時と場の変容に応じて時々刻々変化する。生きてきく上で秩序を意識することは必要なのだが、その変化の表層だけに気を取られていると捉えどころがなくて気が狂いそうになる。事実、狂っている人はたくさんいる。ささやかな自己主張のささやかな成功体験に気を良くしてみたり、自分が何者であるかもわからずに右往左往し続けてみたりしながら一生を終えるところに、何となく悲劇性を感じる。生きることは本来的に悲劇である、と言えなくもない。

たぶん、右往左往するから悲劇になる。右往左往しないためには「絶対」を装いながら実はあやふやな秩序の表層に惑わされることなく、もう少ししっかりした思考の基準がないといけない。おそらくそれは誰しも思うことで、共同体とか宗教ができる土壌にはそういう誰しもが感じているであろう欠落感のようなものがある。右往左往せずに済むような、万人が是とできる思考の軸を創造したり継承したりする作業が本当の教育なのだろう。

「本当」かどうはともかくとして、現状は誰しも教育を受けて成長したことになっている。だから生きている我々はそういう基準を心に持っているはずだ。誰に尋ねても「自分とは何者か」「人とはいかなるものか」をきちんと語ることができるはずだ。

しかし、現実はそうではない。わずかばかりの利得や一時の感情の暴走で人は互いの領分を犯しあう。なまじ知恵があるので、その侵害行為は時に組織的になり精緻を極める。万人の生活に恩恵を与えている科学技術も元は侵害行為を動機に生み出されたものであったりすることもある。余計なことは考えずに、自分が生きることに必要な最低限のことにだけ精を出していれば、案外安穏と一生を全うできるのかもしれないが、余計なことがどうしてもしたくなる。そして右往左往する。なぜか。

結局、人は己をわかっていないからではないか。人類史をさんざん重ねて今更こんなことを言っても始まらないのだが、誰も何もわかっていないのである。生命体の進化であれ、神がこしらえたものであれ、現象を記述したところでそれだけでは誰も何も救われない。

私は折口信夫を柳田國男との関連の中で知ったのだが、折口が民俗学へ向かうのは日本人のそもそもの探求の一つの道としてであって、歌を詠んだり、国文学を研究したりするのと同じように、要するに自分を知るためであったのだと思う。その成果を折口を慕う門弟に伝えるのに、共通言語が必要になる。それが歌であったということだろう。また、そもそも歌とは文意だけでなくそこに込めた魂のようなものを相手に伝えるためのものであった。「言霊」とか「呪言ことほぎ」とか言葉にまつわる呪術的な響きのあるものが現在でも存在するのは言葉というもののありようがそもそもそいういうものであったことの名残だと思う。

折口がその身近の門弟を薫育するために、まず短歌を作らせ、自分の歌風、歌の気息、心と言葉のひびきを、そのまま口うつしの形で学び取らせようとしたのも、日本人の魂の歌による感染教育を目ざしたのであって、近代に起こった多くの世上の短歌結社の文学運動とは、根本的に違う要素を持っていたのである。

69頁

折口の教育の基本が歌を詠ませることにあったのは、彼はそれが魂の表現であると考えたからだ。

短歌は折口にとって、現代の文芸思潮の影響を受けた現代の文学であったが、同時に万葉びと以来の日本人が継承してきた生活の中の心の表現の定型であり、心と言葉の器であった。万葉集の中でも高市黒人をはじめとする旅の歌にいちじるしく示されているように、旅中の魂に起こってくる不安動揺を鎮め、旅先の地で触れあうさまざまな地霊や庶物霊と魂を触れあう、呪的な言葉の形であった。

67-68頁

神だの霊だのというと、今は世の不可解を一身に背追い込まされている思考停止の果てにあるゴミ箱のようなものに思われるかもしれないが、ここに述べられている「カミ(神、迦微、上、…)」は人の心の奥に伏在するはずの理屈を超えた思考の根源のようなものを指している。折口はそれを「まれびと」論として説いたらしいが、当然、それは事の性質上、完成される論理のようなものではあり得ない。しかし、例えば世界的な宗教にあって日本に古来からある宗教に欠落しているとされている緻密な教義や脆弱な罪障観について、もう少し広く世情の関心が寄せられてもよいと思う。もちろん、宗教がそれぞれの時代の権力闘争と結びついて権力基盤強化のための多数派工作の道具として使われたという側面があるので、その歴史的過程で必然的に教義が精緻化されたという事情はあるだろう。それにしても、日本では人の精神的なところに踏み込むことが忌避されるのが不思議なことに思われる。

殊に敗戦後、われわれが敗れたのはただ科学の進歩の遅れや、物量の乏しさによって敗れたのではない。われわれの神、われわれの信仰の力が、彼らの信仰の力に敗れたのだ。それをただ、物の量に負け、科学の進歩に敗れたのだという反省しかないのでは、百年後の日本は危ないよ、と予言した折口であった。また、キリスト教国の彼らは、その聖地エルサレムを奪い返そうとする十字軍のような情熱をもって、南方の島の一つ一つを落としながら日本本土に迫ってきた。それに対しわれわれはただ、神風が吹くといったまったく他力本願な心しか持たなかったという深い反省から、一時は熱心にキリスト教の教義を研究し、敗戦の年から亡くなる年まで国学院で神道概論を説き続けた折口であった。

229頁

日本の神話にも原罪を語るところはある。例えばスサノヲ(素戔嗚、すさのお)が高天原タカアマノハラで狼藉をはたらいた話などはそれにあたる。その狼藉の一つ一つを天つ罪・国つ罪として祝詞の中で唱え上げる習わしが昭和のはじめまではあったのだそうだ。また、神は元来、姿がなく、描かれたり像になることは稀なのだが、なぜかスサノヲは古来より数多く作品化されている。日本の神話に罪障観が脆弱なのではなく、昭和のはじめ頃にそうなったようなのだ。昭和のはじめにこの国で何があったのかということと考え合わせると興味深い。日本中の都市が悉く焦土と化してから76年になる。喉元過ぎれば熱さ忘れる、というが、過ぎる前から忘れているみたいだ。

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