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宮本常一 『家郷の訓』 岩波文庫

宮本の故郷である山口県周防大島の明治から大正にかけての生活誌。今読んでも生活が違いすぎて実感として迫ってくるようなことは少ないが、昭和に育った身としては、全く手掛かりがないというほど遠い世界でもない。これまでnoteで取り上げた宮本あるいは宮本関連の著作と内容に違いがあるはずもないのだが、本書は宮本の故郷というフィールドを限定したものなので、時代の様相の変化のきっかけのようなことがより鮮明に描かれている。

やはり明治維新による社会の混乱が人々の生活に与えた影響は大きいようだ。この時代、現在のように統計類が整備されていないので、各種研究を継ぎ接ぎし、社会事象の伝聞から推測するより他にどうすることもできないが、混乱していたことに間違いはあるまい。

まず、戊辰戦争に象徴される維新に関連した内戦がある。戦争は外部不経済であり、戦勝によって交戦相手から賠償を得ることではじめて経済的な価値を生む。しかし、内戦となると、賠償があるとしても自身の右のポケットから左のポケットに財貨を移すだけのようなもので、内戦中に発生した破壊消費蕩尽だけが残ることになる。その埋め合わせは、当座は外部からの借款が可能であるとしても、結局は緊縮財政と下々に対する課税強化によるしかない。破壊された後の復興需要、兵器の開発や生産に関連した技術革新と生産性向上、といった経済効果が期待できるかもしれないが、大量の戦死者戦傷者は生産要素の喪失であり、復興が完了するまでは、当然、国内経済は疲弊混乱する。

おそらく新政府に対する期待や思惑が政府内外で渦巻いていた。大蔵省は財政規律の確立を主眼に据えるが、大蔵省以外は新たな政策の立案実行に動きたい。新政府樹立直後でもあり、ここは政府として一枚岩で事に当たりたいところであったろう。しかし、そうはならなかった。

実質的に破綻した財政の下、明治六年政変と呼ばれるものが発生する。きっかけは征韓論への賛否だが、要するに新体制が立ち上がりで行き詰まった。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが参議を辞職。西郷・板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職。結局薩摩と土佐の出身者を中心に約600名の官僚や軍人が辞職した。これが明治10年の西南戦争につながる。戊辰戦争の余韻冷めやらぬうちの大きな内戦だ。これらへの対処と並行して様々な分野での近代化投資が行われる。出費は嵩む一方だ。国民生活への負担の皺寄せは想像を絶するものであったとしか思えない。

こうした状況の下、周防大島の人々はこのような変化を見せたらしい。

明治十年から十七、八年にわたる窮迫というものが、島の人たちの骨身にこたえて金をほしがるようにさせたらしい。これについてはそれを裏付けるような話がいくつもある。
29頁

「十七、八年にわたる窮迫」というのはかなり深刻だったはずだ。バブル以降の日本経済が「失われた◯年」などと言われたりするが、おそらくそんな生やさしいものではない。周知の通り、日本はその後、日清・日露の戦争当事国となり、結果としては賠償金や領土を獲得する事になるが、そうなっていなければどうなっていたかわからない。

戦勝と近代化投資による生産性向上で国内経済はようやく安定を得たのではなかろうか。そこに第一次世界大戦で欧州での生産が滞ったことによる需要の爆発的拡大が発生した。どのようなものでも、作れば売れたらしい。鯖の缶詰と称して石ころを詰めたものを輸出して富を築いた者もいた。これにより日本経済はそれまでに体験したことのないような好景気を享受した。持ち慣れないものを持つと使い方を誤るのもよくある話だ。おそらく人々の「自分」観は大きく変化した。

大正の好景気がかなり一部の人たちを華美にして来、飲食の上にも反映した。間もなくそれが村全体の風となった。その契機となったのは大正八年の米騒動ではないかと思っている。この時までは村では麦が最も多く食われていたが、米騒動によって外米が村にも入って来た。普通の日にまっしろな飯を食べたのはこの外米が初めてであったが、そのまま外米から内地米にかわってしまったのである。部落百戸のうち八、九割まではこの時に変わったであろう。そのように村の風習の変化には画然として境があった。
 平生米をたべるようになると晴の日はいっそう華美になるのが当然であった。私の祖父は、
「米をたべるのはうまいが、これではお国がもつまい。」
と心配した。お国の持たぬまえに会食(ヨバレゴト)の方が費用がかかってもたなくなってきた。一方大正の好景気を境に、今まで田舎をまわっていた大工の多くが北九州や大阪などの都会に集中するようになってきた。すると旧暦は通用しにくくなって、盆正月には容易にかえれなくなってきたのである。
74-75頁

ここで「米騒動」について補足する。好景気を背景にそれまで贅沢品の象徴でもあった米の消費が増大する一方で、農村から都市部へ工場労働者として人口が流出し、生産力の制約を受けた農村では米の生産が伸び悩んだ。このため米の需給に変動が生じ、そこに投機熱も高まって米相場が高騰した。米の値段が上がれば、それに関連して物価全体が上昇する。物価の上昇は実質所得の減少でもある。好景気の恩恵から外れている一般庶民の生活は圧迫され、日本各地で暴動が起きた。本書の記述によれば、そもそも米はハレの場の食べ物で、一般の農民庶民が普段口にするものではなかった。

食物などにもきまりがあって、朝は茶粥と芋、昼は飯に汁、夕飯は昼飯の残りと粥または雑炊であった。飯は麦飯で、米が三分も入っていればよいほうであった。六十年前までは大根をきざみ込んだ大根飯を多く食い、麦粥を食う家もあった。麦粥は麦を炒って粥にたくのである。米をたべているとすぐ村の評判になる。「米の飯を食うと蜻蛉が蹴る」という言葉がある。
91頁

読んでいて、今の自分の食生活を反省した。本書にあるような庶民の食が標準であるべきとは思わないが、今が過剰であることは明らかだ。家人と相談して少し簡素化しようかとも思うのだが、言い出して後悔しそうな気もするのでまだ何も言っていない。

私の食生活はともかくとして、実際の生産活動とは関係なく生産物の対価が極端に上下するという経験は、おそらく当時の人々に大きな衝撃を与えたであろう。真面目に働くことが馬鹿馬鹿しいと感じた人が少なくなかったのではないかと想像するのである。維新を契機に個人所有という概念が社会の末端にまで行き渡り、村落共同体の価値観の根幹が揺らいでいた。幕末以来の社会経済の混乱もあり、それまでの暮らしに対する疑念も人々の間で強くなっていたはずだ。そこに賃労働者として資本の雇用を受けるという今までにはない生き方が現れ、しかもそれがある種の成功体験として捉えられるかのような事象が現出したのである。何かと喧しくその割に生活が苦しい農村共同体での生活から、なんとなく華やかで自由に見える都市での賃労働者としての暮らし、ひょっとしたらそこから自分も資本家や何者かになれるかもしれないと期待させるような世界へ、人が向かうのは当然であろう。

実際に、米騒動を契機として物価が上昇、さらに賃金も上昇し、結果として実質所得は増大する。米騒動対策で政府が米価対策費を計上して米価の沈静化を図り、米価は一旦は下落した。しかし、経済の大きな流れは変わらず、その後相場は上昇に転じて再び米騒動時の米価にまで戻るが、今度は暴動は起こらなかった。米騒動を機に社会対策として警察官の採用を増やしたとか、米騒動時の寺内正毅内閣が辞職して爵位を持たない衆議院議員であった原敬が首相に指名されて「平民宰相」人気が出たとか、米騒動後に世情が変化したという事情はあっただろうが、おそらく一番大きいのは、実質所得が上昇していて、表面価格が同じでも実質価値は米騒動時ほど高くはなっていなかった所為であろう。

米騒動の当時、既に株式取引所は稼働していたが、上場企業は少なく、上場株式の流動性も小さかったようで、投機資金の受け入れ先としては米相場ということだったのだろう。米騒動から70年後、いわゆるバブル景気を迎えるが、人の考えることや行動は米騒動の頃とそれほど違いがあるとは思えない。宮本の書いたものを読むと、村落共同体の社会から個人主体の社会になって人々の暮らしが孤独で厳しいものになったかのような印象を受けるのだが、果たしてそうなのだろうかと思うのである。

無論農村には大きな変貌があった。共に喜び共に泣き得る人たちを持つことを生活の理想とし幸福と考えていた中へ、明治大正の立身出世主義が大きく位置を占めてきた。心のゆたかなることを幸福とする考え方から他人よりも高い地位、栄誉、財などを得る生活をもって幸福と考えるようになってきた。もともとそういう考えがなかったのではなく、物臭太郎の物語を夢見る人はあった。しかしそれは村人の感覚から言うと第二義的なものであった。こうして幸福の基準、理想の姿というものがかわってきた。がそれは、根本からかわったのではない。ただ時代の思想の混迷の中に、新たなる基準が見出せなかったのである。そして、基準を失ったということが村落の生活の自信を失わせることにもなり、後来の者への指導も投げやりになっていった。
196頁

人間てそんなに立派なものなのか、と素朴に疑問に思うのである。宮本の著作に関するものはこれでひとまず終わる。noteを始める前に読んだものがあり、それらについて改めて書くことがあるかもしれないが、家にある未読のものは本書をもって無くなった。

見出しの写真は調布市内、祇園寺にある松。祇園寺には板垣退助が手植えをしたと伝えられる松がある。これはその隣の松。板垣は明治六年政変の後、自由民権運動に傾倒するのだが、どの程度本気で「自由民権」を考えていたのだろうか。1908年(明治41年)9月12日に当寺住職だった中西悟玄が「自由民権運動殉難者慰霊大法要」を開催した際に板垣退助も参列しており、この時に板垣が記念植樹したと伝えられている。祇園寺は日本野鳥の会の創立メンバーの一人である中西悟堂が預けられていた寺でもある。すぐ近くにある深大寺を開山した満功上人によって開山された。民権法要の中西悟玄と野鳥の会の中西悟堂は祇園寺・深大寺つながりだが、親子兄弟ではない。両名とも深大寺で僧籍に就いて得た法名。

2021年5月4日撮影

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