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宮本常一 『ふるさとの生活』 講談社学術文庫

読者に小中学生を念頭ににおいて書かれたものらしい。語り口は平易だが、内容の濃さに変わりはない。むしろ、民俗を学ぶことの目的が明瞭にされていて、宮本の考えるあるべき姿がわかる気がする。

結局のところ民俗というのは生活の道具、風習、行事などから人と人との関係の在り様の表現であるようだ。宮本の著作は彼自身が足で集めた見聞に基づいているので、それを以て「日本の」と語るには漏れが多いかもしれない。しかし、現実に様々な地域の人々が往来し交渉することでこの国がひとつのまとまりとして機能しているのだから、少なくともサンプルとしては十分に意味のあるものだと思う。

この国の成り立ちを考えれば、現在の西日本が生活の歴史の中心であって、関東は辺境の地だ。人々が安住の地を求めて開拓、殖民をしながら東へ東へと生活圏を拡大する中で、その集団の中心も東へ移動し現在の姿になったのだろう。そうした流れがあれば、人と人との関わりの歴史とか濃さのようなものは、西が濃くて東が薄くなるのは当然だ。民俗にしても、西は生活の必然から生じたものが、東は形式が移植される形で広がっているという面は多少なりともあると思う。

大地の歴史、地質面の歴史も無視できない。いわゆる温泉場、湯治場と呼ばれる場所が国内至る所に分布している。それと表裏のことだが、火山と地震が多い。つまり、大地が概ね火山灰質で土地の生産力、地味という点では決して恵まれてはいないのである。日本列島全体が大陸プレートの辺縁に位置しているのだから、地殻変動が活発であるのは当然だ。しかし同時に大陸と大海の境に位置しているので、海流と大気の動きは複雑になりがちで、水には恵まれている。大地が比較的若く地味は良くないが、水が豊富で四季の変化がある、ということは民俗と大いに関係する。

そういう大地を切り拓いて食糧を生産し生活を立てていくには、開墾という土木作業にせよ、農耕という生産活動にせよ、共同作業がどうしても必要になる。その上、食以外に住居や衣類の用意もしないといけない。個々の家屋や衣服は個人でもなんとかなるかもしれないが、森林の伐採と運搬といった用材の確保にはやはり共同作業が必要になる。

共同作業に従事する人々の間で能力に大きな格差があると作業は捗らない。「一人前」という言葉があるが、これは共同作業に従事する一人として十分に足る能力を備えている、というのが元の意味である。共同体の構成員の「一人前」として認識されることが、その共同体の中で生きる場を得ることでもある。

しかし、個人の能力には自ずと差異がある。本人の努力は当然として、共同体として「一人前」を育成する相互扶助のようなことも必要になる。それが家族という集団であったり、師弟という擬似家族関係であったりする。「家族」というと人によっては強い思い入れがある場合もあるので、運命共同体とでも呼んだほうがいいかもしれない。運命を共にするということは、構成員の間では互いが自己の一部であり、それぞれに抱える問題があれば、我が事のように真剣に解決策や対応策を考え合う間柄であるということだ。なぜ真剣になるかといえば、構成員全員がそれぞれに「一人前」として信頼できるものでなければ集団が機能せず、集団が機能しなければ自分が生きていけないからだ。

そうした共同体の一体感を確認し合う作業として祭りその他の行事やしきたりのようなものも存在したのだろう。今でも歴史の長い祭りや儀式にはそれなりの細かな手順などが決められているが、本来はもっと複雑で外部の人間には測り知ることのできないようなものであったのではないか。そういう複雑な手順を守って儀式に参加できることが共同体の構成員であることの証しとして機能していた側面もある気がする。もちろん、祭りには神事として吉凶を占うとか災厄を祓うというような目的も当然あっただろうが、それだけが目的なら手順や作法などを事細かに決める理由にはならないだろう。大事なことは、祭りや儀式そのものよりも、それらを取り巻く人の動きの中に確たる役割を得て参加することだったのではないか。

こうして社会の成り立ちを概観すると、今の時代は「一人前」の中身があやふやで、個人の側からしてもその自覚を持ちにくい気がする。これは現在の日常生活の中で他者と何事かを「共同」して行うという実感が乏しい所為であろう。

今の時代に圧倒的大多数の人が生活の糧を得るために従事しているのは賃労働だ。おそらくその圧倒的大多数の賃労働はそれによって得る賃金以外に労働の成果を実感しにくいだろう。もちろん、営業や生産現場のような付加価値の形成が目に見えるものもあるが、それにしても営業商材の生い立ちまでは十分に認識できているか心もとないところがあるし、生産活動の原材料や設備の詳細まで把握できているかどうかも怪しい。現に、感染症の世界的流行や地政学上の異変によってサプライチェーンが混乱をきたしているのは、そうした個々の詳細がきちんと把握管理されていない証左だ。

そもそも個人が自分の生活をすべて理解できるほど今の暮らしは単純ではない。そういう「高度」な生活を実現しているのは生産活動の細分化と合理化であり、その背景として学術・科学技術などの人間の知見知識の高度化専門化があり、生産性の向上が付加価値の増加と同義とされる社会の価値体系がある。我々個人はその細分化された世界を生きていて、自分の領域外のことは貴方任せにせざるを得ない。その細分化された世界のどれを選んで生活を立てるかというところは個人の自由ということになっている。例えば日本国憲法の第22条にこうある。

第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
日本国憲法

「自由」と言われても、思考の種がなければ選択肢が設定できない。その思考あっての自由であり、思考能力を担保するための教育が保障されていなければ「自由」はあり得ない。「自由」と「教育」は表裏一体だ。「自由」と「知性」が一体と言い換えることもできよう。教育は第一義的には個人を産んだ者の責任領域で、それを補佐するのが教育機関であり教育者だ。これらが健全に機能した上で、「自由」は価値を持つ。

法の下で我々には「自由」が保障されている。しかし、保障されている「自由」を享受できるか否かは個人の問題だ。当然のように「個人」が独立した存在として様々な権利義務を負うているように思われているが、我々はいつからそんなにしっかりとした存在になったのだろうか。先日、陳先生の国籍についての本を読んだ時にも似たようなことは考えた。ふと気になって憲法を読み直したらこうある。

第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
日本国憲法

個人の権利義務は諸々あるが、根幹の一画を成すであろう「国民」としての地位は「法律でこれを定める」のであって、自覚するとか自分で決めるというものではない。改めて考え直すと、人は生まれることを選べない。気がつけばここにいる。自ら存在することを選択したわけでもないのに、「天賦」のものとして権利義務が発生する。しかし、社会の中での権利義務の主体性は「法律でこれを定め」られる。我々は一体何者なのだろう?そんなことを思い煩っている余裕もなく時間は過ぎていく。生活をしなければならない。

おそらく、もっと時間が緩やかに流れていた時代には、誰もがそんなことを思ったのではないか。だから、他人と共同して生きていく工夫を重ねてきたのではないか。それがいつのまにか、共同体が希薄になって個人が濃厚になったのではないか。しかし、個人が何者かという問いは取り残されている。尤も、私にとって取り残されているだけで世の圧倒的大多数は何事かを確信しているのかもしれないが。ただ、民俗の歴史を遡れば、今ほど「個人」が前面に押し出されている時代はない気がする。「ふるさとの生活」はもうどこにもない。

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