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陳天璽 『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』 光文社新書

先日、横浜に出かけた。娘と待ち合わせて、新宿からJR線を乗り継いで石川町で下車。まずは中華街で腹ごしらえをする。關帝廟にお参りをして、中華街を通り抜け、地下に入ってみなとみらい線の駅に行く。陽気が良ければぶらぶら歩くのだが、暑いので電車で馬車道駅へ移動。そこから歩いて海外移民資料館を訪れ、このところもやもやと気になっていたことを確認して、帰って来た。

中華街で食事をしていると、常連と思しき客が入ってきて、店の人と親しげに話を始めた。誰それの新しい本が出たとかなんとか、と聞こえた。陳先生が本を出されたんだなと思って検索したら、本書がヒットした。

気がつけば国立民族学博物館友の会の会員を長いことやっている。2012年12月9日の友の会東京講演会の講師は当時民博の准教授だった陳天璽先生。陳先生のご専門は無国籍・移民のアイデンティティの研究だ。会場は横浜にある海外移民資料館の会議室で、資料館の見学もあった。その後、希望者だけということで、陳先生のご実家である中華街のレストランで食事会があった。

私はこの講演会まで無国籍の人がいるということを考えたことすらなかった。自分に経験がなく、身近にもそういう人がいないということもあって、国籍が「自分」という意識とどのように関係しているのか今でも腑に落ちる想像ができないでいる。しかし、国籍というはっきりしたものが自分を語る記号の一つとしてある、というのと、そういうものがない、というのとでは自分の価値観の座標軸での自分自身の身の置き所がだいぶ違うだろうということくらいは想像できる。

私自身は昭和の超ドメドメ人間だ。たまたま若い頃にバブルのドサクサでイギリスのマンチェスターという典型的な労働者の街にある大学に留学したこと、その後のバブルの崩壊で当時の勤務先が外資に身売りすることになったこと、その他諸々があって、外資系企業を渡り歩いてもうすぐ定年というところまで辿り着いた。結果として、社会の中での階級、国籍、人種、その他のタグ付けについて否応なく意識させられることになった。しかし、意識はしても考えるというほどのことはなかった。考えている余裕がなかったと言った方が正確かもしれない。生きるということは瑣末なあたふたに満ちている。その時々の「今」と「未来」を思い煩うだけで精一杯だった。還暦を迎えて「未来」が消えたので、ようやく少しだけ考える余裕が出てきた。そして、振り返ってみて、タグ付けと人格とか性格との関係とか、自分なりに多少納得のいく解釈ができるようになった。

今は社会を左右する色々なことが米国発祥だ。米国はいわばこの世のイノベーションの母体のような存在だ。ここ100年ほどの時代の流れのなかで、米国の地政学上の位置が「世界標準」を発するのに都合の良いところにとりあえず落ち着いたという事情もあるだろう。それれよりも、おそらく、米国という「場」の成り立ちが「金銭」という成果物としてわかりやすいものに依存しないと「自分」の存在を確かめることができない社会だからなのだろう。

世間では社会がグローバル化していると言われている。「グローバル化」の意味するところは、米国のように、歴史や文化といった不定形の過去をリセットして、共有するものを持たない者どうしが、人ひとりの人生という短い刹那で自己の存在証明を果たさないといけないという強迫観念を抱える社会になるということだろう。

必然的に社会に提示する自身の生活の成果物として、共有するもののない相手にも容易にわかるものが要求される。また、そういう明快なものは文化や歴史を超越して独り歩きをして伝播し定着するので、デジタル表示のタグが付くものは本来的に規模を拡大しやすい。結果として世界は、デジタル表示可能なタグで充満することとなる。「有」か「無」か、「有」ならどれくらいの量やサイズなのか。最初の有無の問いに「無」ならば、そもそも社会には参加できないという、なかなかドライな世界が「グローバル」の現実なのではないか。「あることが望ましい」とか「切り捨てるべきではない」というような綺麗事それ自体は議論する以前に絵空事で、その議論とは無関係な利害の一宣伝材料でしかない、のではあるまいか。

国籍とは人の属性だ。しかし、その「国」が無くなってしまったら、その国籍の人は存在しているのに存在しないことになってしまう。「有」「無」のタグで「無」が付いたので社会から排除される。デジタル処理として何の不思議もない。世界に本当のところは何人の人間がいるのか知らないが、おそらく世界人口約79億人の圧倒的大多数は「有」の方なので、無国籍は大勢として問題にはならないのだろう。だから社会としては無国籍の人は存在しないこととする。それでいいのか?釈然としない。

本書には陳先生ご自身のことも含め、さまざまな「無国籍」の事例が紹介されている。「国」というのは巨大な組織が簡単に現れたり消えたりしない、という前提で、おそらく大勢の人が生きている。しかし、ある日突然「国」が誕生したり消滅したりするのは歴史上の現実としてある。現実というものは個人の事情を勘案したりはしない。

本書によれば、無国籍が生じる原因は様々だ。

旧ソ連や旧ユーゴスラビアなどのように、国家の崩壊、領土の所有権の変動によって無国籍になった人もいれば、私のように外交関係の変動が原因で無国籍になった人もいる。また、国際結婚や移住の末、国々の国籍法の隙間からこぼれ落ちて無国籍となった子どもたちも存在する。日本の場合、具体的にはかつて沖縄に多かったアメラジアンや、1990年代以降に増えたフィリピンやタイからダンサーとして来日した女性と日本人男性との間に生まれた婚外子がそうだ。ほかにも、ロヒンギャなどのように民族的な差別の結果、無国籍となった人々、そして行政手続きの不備など、無国籍者が発生する原因は実に多岐にわたる。
15頁

本書は無国籍という具体的事例を扱ったものだ。しかし、国籍というものを人間の属性を表現するタグ付けの問題として捉えると、話はとんでもなく深く恐ろしいものに見えてくる。「国籍」というタグを「XXX」に置き換えてみると、という発想で自分自身が抱えていること、自分の身の回りの人が抱えている問題を捉えることができるだろう。そして、その問題はそもそも解決できるのか、というところにまで思いが至るはずだ。その時、、、ということなのである。

社会を生きる以上、その仕組みに自分を適応させないわけにはいかない。現実を明快に分析して、個々の課題や問題を明らかにすれば自ずと解決は見える、そのためにこれをこうしてああして、、、とロジックで物事が全て片付くとの考えはよく耳にする。また、そういうことが「価値創造」だと信じている輩もたくさんいるだろう。しかし、生身の現実というのは本当に「有」「無」とか「0」「1」とかで割り切れるものなのか、割り切らないといけないものなのか。割り切って「解決」したら幸せになるのか。

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