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泊まってよかった宿 第1138話・3.27

「ならもう少しいようか」ふと窓に視線を向ける茶髪の女は、ひとり旅の最中であった。女は特に目的もなく延々と旅をしている。実はこう見えても女の職業はユーチューバーであった。だが女はこの言葉を異常なまでに嫌っている。
「トラベル動画クリエイターと呼んでほしいわ」と、内心思っているのだ。

 女は旅をしながらその場で珍しいもの、あるいは万民でなくとも一部の愛好家が興味を持とうと思っているものを見つけると、その場で動画の撮影を開始する。時にはライブも行う。ライブをしながら街歩きをしてその様子を行うとファンが増えた。もちろん自分も楽しい。こうして日々動画で稼ぎながら旅を続けているのだ。

「私が、トラベル動画クリエイターとしてまもなく1年か」女は普段は安宿に泊まることが多い。個室の部屋の場合もあるが、いわゆるドミトリーと呼ばれる、ベッドだけが与えられる共同の部屋に泊まることもある。もちろんその場合は女性専用と決めていた。

 旅を初めてから1年がたつ。女は少し自分自身へのお祝いをしようとした。最初の半年は動画の稼ぎもほとんどなく、旅をスタートした時に所持していた貯金がじり貧の状態である。おそらくこのまま芽がでなければ、残り3か月で旅を中断せざるを得なかっただろう。だがその半年後からようやく成果が出始めた。こうして少しずつ結果を残すことで、今では貯金を切り崩すことなく動画の収入で旅を続けることができるのだ。

「よし、今日はここにするわ」女はこうしてこの度で一度も泊まったことのない高級ホテルを予約した。それも5つ星ホテルである。
「ホテルの案内をライブ動画にしてもいいかな」女はそう思ってホテルをチェックインした。だがいつもなら不愛想なフロント担当が多いような安宿に泊まりなれているためか、高級ホテルに来るとやけに緊張する。

 見た目だけなら明らかに、稼いでいそうなフロント担当のエレガントな笑顔、そして部屋まで同行してくれるスーツ姿のホテルマンのさわやかな対応、女は同じ宿泊先でもこうも違うのかと思ってしまうほどだ。

「まるで宮殿のようね」と女は目を丸くした。結局ライブ動画をあきらめる。純粋にホテルライフを楽しむことにした。ここは高層ビルにあるホテルである。眼下にはミニチュア模型のような建物が見えた。あまりにも高いから下の道路を走っている車はまるで蟻の行列のようだ。

「さて、でも、これは仕方がないか」女は夕方にホテルのチェックインを済ませたが、素泊まりである。朝食はオプションだが高い。だからチェックアウト後に食べることにした。夕食はもちろんついていないが、ホテル内のレストランは高い。どうにか稼ぎが出たとはいえ、まだまだ動画の収入は知れている。だからレストランで食事をすることなどありえない。

「せっかくの部屋、外に出るのはもったいないわ」女はホテル近くにあるコンビニに行くこともしなかった。あくまでチェックインからチェックアウトまで部屋にとどまり続ける。できるだけ部屋の高級な雰囲気を味わいたいのだ。

「これで明日まで我慢ね」女はポケットからビスケットを取り出した。ビスケットは5枚くらい入っている。旅の最中このくらいの食事だったことは何度もあった。むしろ5枚もあるのは多いほうだ。こうして女はビスケットを一枚かじった。あと4枚は小腹がすいた時に食べれば済む。

 食べ物はそんな状態だったが、ホテルライフは十分に楽しめる。自由に飲めるコーヒーやお茶のパックで交互に飲む。また高級そうなバスタブが部屋についている。女はチェックアウトまでの間、合計3回風呂に入った。これだけで女にとっては至高の時間。あとはテレビを見ながらホテルでの滞在を楽しんだ。

「思ったほどおなかが空いていないし」女はいつもより早く眠ったためか、目覚めの朝も早かった。眠る時間が惜しいと思ったほうが良いのかもしれない。日の出とともに起きてベッドの中で余韻を楽しむ。やがて起きて服を着替えた。その気になればいつでも外に出られるようにしてから、残りの時間でホテルライフを楽しむ。

「さて、ここを出るとまたいつもの生活に逆戻りね」わずかばかりに感じたセレブ生活も一晩だけでまもなく終わる。荷物をまとめいつでも外に出られるようにした。ホテルを出ればまたトラベル動画クリエイターとしての仕事が再開する。女は特に何も考えずに視線を窓に向けた。見納めとばかりに高層階からの部屋の景色を楽しんだ。

「もう少しいようかな」女は時計を見る。午前10時前だった。それを見ると女は動くことなく視線を再び窓に向ける。こうして心地よいこの高級ホテルの部屋に今しばらくとどまることにした。

といっても12時までの2時間余り。なぜならばチェックアウト時間が12時だからである。

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