芦ノ湖の水を水田に取り込め

「箱根権現様の許可を無事にもらった。あと与右衛門殿が出してくれた資金があれば、深良の領民は必ず潤う」
 現在の静岡県裾野市。江戸時代・4代将軍徳川家綱の時代に、深良村の名主・大庭源之丞はそう言って胸を張る。
「私も新田開発の経験があるから良くわかります。しかし大胆にも芦ノ湖の水を引くために隧道を掘るとは!」源之丞の横にいる江戸商人・友野与右衛門は、驚きながらも源之丞の計画に同意していた。

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 箱根外輪山に囲まれた芦ノ湖には満面の水が溜まっている。そしてそこから北西に位置する、湖尻峠のさらに西側に深良の地があった。ここも富士山の裾野から水が湧き出ているものの、火山灰を拭く地質のためか、水持ちがとにかく悪い。
 そのため代々深良地域には水田よりも畑地のほうが多かった。だがこの地を統治していた小田原藩は、幕府の命により年貢米の石高増産を狙っている。

「源之丞。この地に新田を開発できぬか」藩の役人が大声で問いただす。
「お役人様。前にも申したように、現状の黄瀬川の水だけでは無理でございます。新田はおろか現状の水田を維持するにもやっとのことで」
「そうか。だけどな、今は新田開発で総石高を上げるのは幕府からの方針だ。何か方法は無いかのう」

 ここで源之丞、かねてから頭の中に浮かんでいたことを話し出す。「お役人様、では芦ノ湖の水を引っ張ることができれば... ...」
「何? 芦ノ湖の水とな?」
「はい、あれだけの水量があれば、この深良の地でも新田開発が可能となります」
「しかし湖からは山がある。どうやって水を運ぶのじゃ」
「そのためには、山の下を掘って隧道(トンネル)を掘るしかありません」
「うーん、つまり箱根外輪山の下に水路を作るということじゃな」「左様でございます」
「ずいぶん壮大な計画じゃが、本当にそれしかないのか」
 役人は腕を組みながらため息をつく。

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 このようなやり取りから、箱根外輪山に隧道を掘り、芦ノ湖の水を西にある深良に届ける計画を考えた源之丞。
 その計画を熱く語り、当時芦ノ湖の水利を持っていた箱根権現の許可、そして資金面では与右衛門の援助が得られることが確定。1663(寛文3)年には与右衛門が開墾の祈願を箱根権現で行った。

 そして実際の許可を得るために与右衛門は、他3名の町人の同調者と元締めの組合を結成。箱根権現の別当だった僧・快長の協力の下、幕府の役人たちの説得に回り、開発請負手形を提出する。
 さらに元締めたちは掘削により手に入る新しい水を使用するものは「水掛料」を別途取ることとした。そのお金は出資者に償還することで町人たちからの出資を募る。

 しかし掘削の許可を得るのに3年の月日が流れた。ときの小田原領主は江戸幕閣の中枢を担う老中・稲葉正則。しかしそれでもこれだけの間、許可が下りなかったのは、町人たちの出資だけでは足りず、幕府から6000両を借り入れる必要があったからともいわれている。

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 1666(寛文6)年になってようやく許可が出て、資金も集まった。いよいよ掘削が始まっていく。これは芦ノ湖側、深良側の二か所から同時に掘り進めて行く。 
 長さは1200メートル。当時は手彫りで先に掘り進めた。当時の金や銀の鉱山で使用された、ノミとツルハシだけで先に進めていく。極端に硬い岩は当時の道具では彫れないので、それを避ける。その都度誤差を測量しつつ蛇行したトンネルが彫られて行くのだ。また奥に進めば酸素が欠乏するので、息抜き用の縦穴も掘られていく。

「クソ! また崩落したぞ。ったく弱い地盤だよ」「おい、水がでた! 逃げろ!!」途中ではこのようなやり取りが頻繁に行われた。
 やがて双方の先端が合流。工事の測量では10メートルの落差を確認して行われたが、合流する中央付近では1メートルの落差が出来ている。計算上によるものか、ミスによるものかは現在もなお不明。

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 工事が始まって4年が経過した。1670(寛文10)年2月25日。
「ついに完成しました」
 源之丞はその一報を聞くと、両手を伸ばすように大きく上げて喜びを表す。「やったぁ、ついに芦ノ湖の水が深良に流れるぞ!」こうして深良用水は完成した。

「源之丞、よくやったぞ。これで石高が間違いなく増えるだろう。だがこの掘削技術の記録をとどめてはならぬ」役人が意外なことを言い出す。
「お役人様。なぜでございますか?」「幕府からの命令じゃ」役人はこの一点張りで、技術的な記録を破棄させたという。理由のひとつとして民間に高度な技術が伝わることを、幕府が怖れたからともいわれている。

 ちなみに日本の土木史上では重要な意味を持つことになる、この用水の作業を行った人夫の数は延べ83万人。総工費が7300両あまり(現在の60億円相当)と言われている。



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