Juxtaposed、そしてわからなくても進んでいく人生
夫とデートをした。
いい歳してデートも何もないだろうと我ながら思うのだが、しかし他に適切な表現もないので、デートとする。
なんなら恥ずかしくなってもきたので「でえと」でもいいと思っている。
実は先々月にもでえとをしてるのだが
(そのことを書こう書こうと思って2ヶ月経ってしまった)
その時はあるイベントに参加することが主目的だった。
今回は本当に出かけるだけなのだ。
その日は息子が私の実家に行って甥っ子の面倒を見ることになっていたので、あとは娘に留守番を頼むだけでいい。
誘ったのは私だ。
彼は自分から誘うことはない。
しかし、誘って欲しいことはたまーにちらりと会話の中に浮かばせる。
そのちらりとした気持ちは
お互いの身体の間に雲のように
浮かんでふよふよっとしている。
しかし彼は回収はしないのだ。
色々ずるいなと思う。
私の気持ちをはかられている。
ずるいなと思いながらもまんまとその手にのるしかない私がいる。そんな感じでかれこれ20年近くやってきた。
でえとの日はお天気が悪いことがわかっていたので、室内で過ごせる場所を探してみた。
そして、結論として、その日は私たちのでえとの定番コースである「映画鑑賞」をすることとした。
ウェスアンダーソン監督の
アステロイド・シティが
公開されていたので
それを見に行くことに決める。
場所は、ちょうど良い時間帯で映画が上映されている「横浜」にした。
横浜は今年の私の誕生日月に家族で宿泊して以来となる。
運転しながら私は車内にBluetoothで繋いだ音楽を流す。
夫は私が音楽を聴くのが好きなことを知っている。
彼は本当は車内で音楽を聴くのは得意ではない。都会の道を運転するのはかなり集中力がいるのだ。ナビゲーションの画面と音声、そしてリアルな道路を見比べて、あと「何百メートル先を右折」はどの道のどのタイミングで右折したらいいのかを、集中して情報を拾い適切に行動に移さなければならない。
でも横浜である。
横浜みなとみらい周辺は比較的何度も行ったことがある場所だ。
だから、慣れている道や高速道路中は私は遠慮なく音楽を流す。夫も運転し始めてから私がそうしたいのをわかっていて「僕の(Bluetooth)切ったから」と教えてくれる。高速道路を降りてからはナビを聞かなければならないので、私はそこで音楽をぴたっと止める。
お互い言わなくてもわかっている。
ルールは守ることにする。
私は車内で曲を口ずさんだり、ゆったりと聴いたりする。
夫から何か言われれば相槌をうつ。
でも長い返事はしない。
夫が私に言うことはほとんどが独り言のようなものなのだ。私からの意見はそれほど求めていないのかもしれないと感じる。
実際夫の話は私が聞いていて
私が詳しくない分野が多いのだ。
格闘技の話。
時計の話。
洋服の話。
今度の学会の宿泊先の話。
どんな人と会ったりどのように過ごすのかなど。
私はうんうんと相槌を打ってまた歌を口ずさむ。
私はテニスの壁打ちの壁だ。
彼はたまに本から読んだ哲学的な話をしたりもするので、そこは深掘りのようなことを試みるが、あまり長々とそんなことを言い合うのも好んでいないようなので、意見を聞いて私もさっと意見を返して終わりにする。
おだやかに。
なるべく弛緩した態度でいたいと思っている。
音楽をシャッフルで流していると、好きなGRAPEVINEの曲が流れてくる。
juxtaposed....?
と思い、意味を調べる。調べるのは2回目だな、忘れてるな、となんとなく思い出す。
映画はおもしろかった。
宇宙人と
ピクサーのカーズのような世界と
群像劇と
家族の喪失と
恋愛と親子が
それぞれに劇中劇の中で
豪華キャストによって
ある種作り物的な
抑揚の平坦さも抱えつつ
様々に表現されて
動いていく。
「眠らなければ目覚めない!」という出演者たちが唱えるセリフもかなり考えさせられた、が。
私は主人公が悩んでいる姿が印象に残った。
主人公はところどころで立ち止まる。
「なぜ、オーギーはこんなセリフを言うんだろう」
自分の演じる役がうまく理解できない。
作家や演出家に相談する。
「自分の役を理解できなくなった」という彼に対してみな一同に「そのままやってくれ」「それでいい」と言うのだ。
主人公は自分を理解することができない。
でも劇の中では主人公の人生は進んでいってしまう。そしてひとつの終焉を迎える。
映画を見た後、お昼ご飯を食べた。
映画館が入っているビルの雑貨屋さんなどを眺めながら、そのまま横浜の街に出た。
カフェに行きたいと思ったのだ。
私がカフェの名前を言うと、夫が調べてくれて2人で街中を歩いた。
雨がしとしと降っていた。大雨と小雨の中間くらい。
水たまりに時々足先が入ってしまう。夫は私より歩行のペースが早いので、水たまりを避ける余裕はあまりない。
水が跳ねて、私の下腿は冷えていく。
でも歩くのは心地よい。
足が重だるくなるのも嫌いではない。
多少濡れてもかまわない。
私は大きいせいか、傘をさすのが下手だ。
雨で風が強い日はかなり体がずぶ濡れになる。
桜木町の駅の反対側は、急に雑多であやしい雰囲気になる。
野毛のあたりを歩いていると、途中でたくさんのスナックのお店が見える。
「野毛都橋商店街ビル」と言われるその場所は、映画などでもよく見かける風景だ。
目的のお店にたどり着くと、なんと定休日だった。
先日お会いした茉叶さんの「グルテンフリーのお店」が頭によぎって、久しぶりにグルテンフリーのお店を開拓しようと思ったらこんな結果だ。
私はこういう時、あははと笑ってしまう。
そしてそれを許してくれる夫が横にいる。
「さっきの映画館のビルのフルーツパーラーに行こう」と私が言い、元来た道を2人でずんずん辿っていく。
水信フルーツパーラーラボで、甘いものを食す。
あたたかい紅茶に体と心がゆるんでいく。
先ほどの疲れは甘いもので全て帳消しになる。
「これを食べるために歩いたんだよ」
私は言う。夫は特に返事もしない。
「おいしいなぁ」
と私が言っても、彼は特に返事はしない。
「甘い」
とチョコの感想を何度か伝えてくる。
juxtaposedも
わからない人生も
今の私は許せる。
許してしまおうと思う。
私たちは並べられて
ただそこにいるのだ。
思い通りにならないし
ならなくても願ってしまったり
自分を操縦したくとも
自身を操縦できない
大きなものに
もしかして包まれているのかもしれない
そして、映画が示す通り
お芝居でなくとも
自分はわからない部分を含めて
それでもどっこいみんな生きている。
そんなことを映画から感じた。
なんでもかんでも説明できるもので
世の中はできてないのだ。
その曖昧さと、揺らぎと
不確かな世界で
それでも....私は私をわからなくとも
生きていくことを
惑うことはないのだなと。
横浜の雨と映画とパフェのでえとは
私にそっとささやきかけるのだ。
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