見出し画像

選択肢をひろげるためには1

これは、かの有名な古代ギリシャの哲学者であるソクラテスが示した
哲学の概念である。(実際に言った訳ではないらしい)

高校生の時、現代社会・倫理・世界史が好きだった(理系クラスだったはずだが・・・)これらの単元では、哲学者や哲学について必ず触れる
そこでなぜか頭に刻み込まれている言葉があった。
それが「無知の知」だった。

なぜ、ずっと記憶が色褪せることなく残っているのか・・
やはり先生のせいだろうか
期末テスト前にEU下部組織をなぜか懸命にそして楽しく覚えたものだ
(特にUNHCR:国連難民高等弁務官事務所←リズムがよかった)

話を戻して・・・
高校生で哲学というものに少し触れることができる。
抽象的で少しわかりにくいこともあっただろうが、なぜか考えさせられる
昔から知的好奇心旺盛だったからなのか
前回投稿した「知ることへの不可逆性」を感じてなかったともいえる

哲学を示す「フィロソフィー」は、ギリシャ語の「フィロソフィア」が語源とされる。「フィロソフィア」は「知を愛する」という意味だ。
なんて素敵な意味だろうか
しかし、知を愛し「すぎる」のは、ソクラテスの最期のように気をつけなければならないのかもしれない

よくミステリーや古代王朝の話など、歴史が関わっている本を読むと、
知を愛し「すぎた」人は、それ故に反感を買っていることが多い。
そしてそれらを理解されず最期を迎えてしまうことも多いように思う

それはなぜか

それは「暴かれてしまう」からだと私は思う。

なぜ「暴かれる」ことが反感を生むのか

「暴く」=人が隠していることや気づいていないことを探り出して公にすること。暴露すること。

彼らは、図らずも暴いてしまっていたのではないかと思う。
彼らの知的好奇心が、人を想うことよりも遙かに上回ってしまうのだ。
好奇心というのは、時に人を人から遠ざけてしまう。
知られたくなかったことや秘密にしていたこと。
それらが彼らの好奇心の一端であった時には最後。

しかし、

「知らない」というのは、人の視野や選択肢を狭めてしまう要因でもあり

「知らない」というのは、新たに知らされた事実を受け入れる器を小さくし

「知らない」というのは、時にすべてを拒絶するほどの恐怖を抱かせる

「知らない」というのは、変化を拒否し進化を阻む可能性をも秘めている


「知る」ことは難しい
「知を愛する」ことはやはり難しいのだ
だから哲学というのは、抽象的で理解しにくい学問なのかもしれない

さて、
ここでこの記事のタイトルについて考えてみる。
「選択肢をひろげるには」
私は、「知る」ことが選択肢をひろげる唯一の方法だと考えている

それはなぜか 単純なことだ

「知らない」人よりも考えられ得る選択肢が多いからだ。

卵焼きを作ろうとしたAは、うまく巻けずボロボロになった玉子をみて
「失敗した」と言った。
卵焼きを作ろうとしたBは、うまく巻けずボロボロになった玉子をみて
「スクランブルエッグに変更だ」と言った。

私が考えた例文だが、Bは少なくとも卵焼きとスクランブルエッグの両者をの存在を知っていたために「失敗」とはならなかった。
(完璧主義者であれば、この例えは成立しない気もする)
このことからも「知」を持つことは、立ちはだかる困難に打ち勝つ(ここでは、料理名を変更し、失敗の判断をしなかったこととする)ためにも必要不可欠な要素であると示すことも可能だ。

ここまで私の持論を前面に押し出してきたことなどあっただろうか
これが、「表現の自由」か。
病みつきになるかもしれない。

ここで少し訂正というか、訂正をする。
ソクラテスの最期というのは、民衆に反感を買い、処刑された。
暴いたことも原因だと私は思うが、暴き方が良くなかった。
誰彼構わず、話をして相手の話したことに疑問を持ち、会話を進めながら相手の間違いをあぶり出していくようなやり方だったと聞く。
それでいて勝手に暴いていては、反感を買うのもおかしくない。
人の気持ちは難しい・・・こればかりは勉強ではどうにもならない。

ふう

要するにここでは、
「知」を持つことに恐れず、「知らない」ということにも恐怖を覚えない方がよいのではないか
と言いたい。よ
この私の考えも数多ある考えの一つであり、賛同も否定もせずに「こんなことを思っている人もいるのか」程度の感情で読んでいただけていたら最高だ

長くなってしまった
この続きとして「どうやって知を持って行くか」をいつか述べてみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?